次元を架ける天秤
「いいえ、証拠はないわ。でも、看護婦さんが話しているのが聞こえたのよ。おばあちゃんの死は、投薬のミスだったって」
「間違った薬を与えたということ?」
「そうじゃなくて、副作用が起こったらしいのよ」
「副作用だったら、それを証明することは余計に難しいぞ。それに、人的な単純ミスではないわけだから、不可抗力として片づけられるかも知れないよ」
「それでも、いいのよ。あなたはこのまま泣き寝入りしてもいいっていうの?」
「そんなことは言っていないさ。何事も冷静にならないといけないと言っているだけだ。どちらにしても、弁護士の先生に相談して、今後のことを決めないといけないよな」
「ええ、分かったわ」
そんな会話だった。
しかし、それから一向に祖母の死についての裁判はおろか、話をする人もいない。後から思えば、弁護士に説得されて訴えないようにしたのか、あるいは、示談金で事が済んだのか、どちらにしても、秋田にとっては、消化不良だった。
そのことがあってから、薬の副作用に関しては敏感になっていた。
――それなのに――
どうして、副作用という発想を今しなかったのか、とにかく悔しさが込み上げてきた秋田だった。
「なるほど、確かに矛盾だわな」
秋田の言葉には怒りが籠っていたが、そのことに石狩教授が気づいたかどうか、分からなかった。
「それで、君たちの研究しているタイムマシンの方なんだが、僕は専門家ではないが、『パラドックス』という発想は分かっているつもりだよ。これも医学を志す人から見ても、同じような矛盾を孕んでいるんじゃないかな?」
「ああ、そうですね。でも、僕は同じ矛盾を考えるなら、『不老不死と薬学の関係』に矛盾を感じますね」
「確かにそうだね。不老不死の薬は薬学を志していると、目指したくなる研究なんだが、それが開発されると、今度は人が死ななくなる。そうなると、薬が売れなくなるという発想だよね」
「そうですね」
「でも、それこそ、漠然としていないかい? 不老不死という発想はまず、さっき話をした自然の摂理の発想と結びつくのがより自然な発想になるはずだよね。だから、僕は敢えてここに矛盾を持って来なかったんだ」
「でも、パラドックスという発想を説明するには、不老不死と薬学の関係の方が、分かりやすいし、説得力があるような気がするんだ」
「それは、見解の違いというものかも知れない。医学を知っている者と、知らない者のね」
秋田教授は、
――ここは譲れない――
と言わんばかりの口調だった。
「確かに、医学をタイムマシンのような世界の話に結びつけるのは、あまりいいことではないかも知れない。人の生死にかかわることを、軽々しく他と比較するというのだからね」
と石狩教授がいうと、
「それはそうなんですが、我々タイムマシンを研究している人間は、最初から『矛盾ありき』で研究しているんです。ここが一番の違いではないかと思うんですよ」
「医学も似たようなものかも知れない。矛盾というものは、何においても、絶対に存在するものだと思うんだ。光があるところに影があるようにね。だから、素直に矛盾というものを認め、いかに矛盾が結果を悪くしないようにしないといけないかを考えないといけないんじゃないかな?」
「そういう意味では、すべてにおいて、矛盾という観点から見れば、共通点があるということですね」
「そうだね」
二人がそんな会話をしていたのは、ごく最近のことだった。
石狩教授が忽然と消えてしまったのは、それから一か月のちだったのだ。
石狩教授がこの世から消えてしまうなど、想像もしていなかった麻美は、いつものように自分の中にある邪悪な「穢れ」を、石狩教授が癒してくれるのを待っていた。
石狩教授に招かれるまま、夫婦の寝室に入り込んだ麻美は、一糸纏わぬ生まれたままの姿になった。
最初の頃は、
「どうして、夫婦の寝室なの?」
と、いくら出て行ったとはいえ、かつてはここで違う女を愛したことは紛れもない事実だった。
「ラブホテルと同じじゃないか」
石狩教授は、平気でそういうことを口走っていた。
――この人は優しいんだけど、こういうところはデリカシーがないのね――
と、人間性を疑ったが、それを差し引いても、もう後戻りのできないところまで、麻美は来ていたのだ。
――私は、この人を愛しているんだわ――
と感じてからというもの、逃げ出しそうになるのを抑えながら、石狩教授の腕に抱かれた。
本当に最初の頃は、吐き気を催すほどだったのだが、最近では慣れてきた。
――慣れてくるというのも、なんだか……
と、自分がだんだんと違う性格になってくるようで恐ろしかった。
石狩教授に身体を預けるようになった最初の頃は、ほとんどラブホテルだった。本当は、もっとムードのあるところがよかったのだが、石狩教授にその気はないようだ。彼にデリカシーがないということにその頃から気づいていたが、
――これが学者肌というものなのかしら?
と感じたが、夫の秋田には、ここまでのデリカシーのなさはなかった。
それなのに、なぜ石狩教授に惹かれたのか?
自分の心の隙間に気づいた時、目の前にいたのが石狩教授だったのは確かだ。
「麻美さん、何か心配事があるのでは?」
「えっ?」
ふいに声を掛けられてビックリした麻美だったが、声を掛けられたことや、心配事を看過されたことに驚いたわけではない。それまでいつも、
「秋田さん」
と呼んでいた彼が、その時初めて、
「麻美さん」
と呼んだのだ。
これにはビックリしたというよりも、身体に電流のようなものが走った。夫の秋田に一度も感じたことのない感覚だった。
――この人に声を掛けられたのは、運命なのかしら?
と感じた。
今まで運命などというものを感じたことはなかった。夫の秋田と結婚したのも、秋田の強引さに負けたのが原因と言ってもいいだろう。
――決して自分の意志ではなかったんだわ――
という思いがあったが、それを肯定してしまうと、息子を否定してしまうことになる。それだけはしてはいけないことだと思っていたのだ。
石狩教授に対しては、完全な一目惚れだったと言ってもいいだろう。その後に感じたマイナス面を差し引いても、石狩教授に惹かれているという気持ちをくつがえすことができないのは、麻美が初めての一目惚れだったからに違いない。
「ずるい人」
ベッドの中で何度か独り言のように呟いた言葉だったが、
「どういう意味だい?」
と言って笑っていた石狩教授だったが、麻美の気持ちを分かっているに違いない。
――それなら、聞かなかったふりをしてくれればいいのに――
と思ったが、それが石狩教授の性格なのだから仕方がない。
この性格を理解できたからこそ、今の石狩教授にも惹かれてしまうのだろう。彼のそんな性格を、麻美は決して嫌いではなかった。
石狩教授は、ベッドの中では豹変する。
それまでの紳士的な態度とは違い、麻美に対して積極的に辱めを与えようとする。恥ずかしがっている麻美を見ながらほくそえんでいる姿は、最初気持ち悪かったが、次第に快感に変わっていった。
――この人、S――
ラブホテルにいる時から分かっていた。