次元を架ける天秤
むしろ知りたいことを教えてもらえて感謝しているかも知れない。それがどんなに自分にとって悲惨なことであっても、受け止めなければいけないことであれば、石狩教授の態度は、
「相手のため」
と言ってもいいだろう。
麻美は、そのことに気が付いた。
――私なら、ちゃんと正面から話してほしい――
ということを、ちゃんと目を見て話してくれる。
そこには諭しているような様子も、
「自分が知っていることを話してやっている」
という恩着せがましい上から目線は感じられない。
――やっぱりこの人は、新鮮な人間なんだわ――
麻美は、人間臭い人は嫌いではない。そこに妬みや恨みと言った感情が表に出ていたとしても、それがその人の本性であるならば、嫌いになる必要はないのだ。
しかし、それが自分に向けられることであれば話は別だった。正面切って挑戦してくるような相手に、立ち向かうだけの勇気があるかと言えば、自信があるわけではない。
――自分だって、計算高いところがある――
と自己嫌悪に陥りそうになるが、それも、
――これが自分の人間臭さなんだ――
と思うと、自分を許すこともできるからだ。
石狩教授には、そういう意味での人間臭さはあまり感じない。
聖人君子のような人がいるはずはないと思っている麻美だが、石狩教授を見ていて、
――何を考えているんだろう?
と思うこともしばしばだった。
しかし、そんなことを考える必要はなかった。
彼はいつも相手の立場に立って話をしてくれる。麻美は、自分の中に、時々違う人がいるのではないかと思うことがあったが、それはひょっとすると、自分の立場に立って話をしようとしている石狩教授の「目」になっているからなのかも知れない。
石狩教授の屋敷の奥には、教授の研究室があった。西洋屋敷の奥に密かに作られた研究室。麻美は一度だけ入ったことがあったが、不気味以外の何物でもなかった。
教授は、大学での研究とは別に、家で密かに何か違うことを研究しているというのは、自分の夫である秋田教授から聞かされていた。
石狩教授は本来であれば、医学博士であった。大学では不治の病を治すという永遠のテーマを掲げ、日夜研究に励んでいた。秋田教授のタイムマシンの研究のような、漠然としたものではないが、難しいことには変わりない。
「不治の病を治す研究も、タイムマシンの研究も同じようなものだ」
と石狩教授は秋田教授に語ったことがあった。
「どうしてですか?」
秋田教授も相手がいくら大先輩とはいえ、自分の研究の何たるかも知れないのに、おのれの研究と一緒にされたことに違和感を覚えた。少し口調が荒くなっていたが、そのことは石狩教授にも分かっていた。
「僕たちの研究は、不治病を治すということをテーマにしているけど、このテーマには二つのことで矛盾が発生するんだよ」
「矛盾……ですか?」
頭をもたげながら、不思議そうな表情を浮かべた秋田は、石狩教授の真意を知りたかった。
「まず一つは、不治の病を治すということがどういうことかという発想に繋がってくる。つまりは、『死ぬはずだった人が死なずに、延命する』ということなんだよ」
「はい、医者としては、研究冥利に尽きるということですよね?」
「私も最初はそう思っていて、研究に何ら疑いを持っていなかった。しかし、人間というのは寿命というのがあるんだ」
「ええ、確かにそうですね。でも、天命を全うできた時の年齢のことを言うんじゃないんですか?」
「僕もそう思っていたんだ。しかし人間は自分たちだけで生きているわけではない。自然の中で生きているんだよ。そこには『自然の摂理』が存在する」
「ええ、分かります。『自然界のバランス』というやつですね?」
「ああ、そうだよ」
ここまで聞くと、さすがに秋田教授も話についていけるような気がした。
「じゃあ、先生は寿命というのは、不治の病に罹った時点で、その人の死を邪魔してはいけないものだって思われるんですか?」
「医者の立場としては、そんなことを考えてはいけないんだろうけど、昔から伝わる話の中に出てくる『不老不死』の話、うまくいった試しがあるかい? 私は宗教を信じているわけではないが、宗教では『人間が死んだ後の世界を考えて、今の世の中でどう生きるか?』ということがテーマになっているじゃないか。要するに、『不老不死』などという発想は矛盾に繋がることであり。『不老不死』が矛盾なら、『不治の病の治療』というのも矛盾に繋がるんじゃないかって思うんだ」
「なるほど、分かりました。では、もう一つの矛盾というのは?」
「もう一つは、不治の病というものだけに限らず、医学界が抱えている矛盾と言ってもいいかも知れないのだが、それは『副作用』の問題なんだ」
「副作用というのは、どうしても、投薬の世界では避けて通ることのできないものですよね。大なり小なり、ほとんどの薬に副作用というのは付きまとっているんじゃないですかね?」
「ああ、その通りなんだ。いくらその病気に対しての特効薬が開発されたと言っても、副作用というものを避けて通るわけにはいかない。せっかく目の前の病気を治しても、その副作用が潜伏していたさらにひどい病気を呼び起こさないとも限らないからね」
石狩教授の話は、説得力があった。
専門外と言っても、医学と薬学は切っても切り離せないということは分かっていたつもりだ。
特に副作用という考えは、他の人に比べて持っているつもりだった。その証拠に、石狩教授と話をする前に、その発想があったことは自分でも意識していた。それなのに、石狩教授と話をしている間に、いつの間にか副作用という考えは消えていたのだろう。
石狩教授の口から副作用という言葉を聞いて、忘れていたというよりも、最初から発想していなかったかのような驚きが、秋田の中にあったのである、
特に秋田にとって、副作用というのは、忘れることのできないものだった。
自分が子供の頃大好きだった祖母が、病気で入院していた。小さな子供だった秋田には、それがどんな病気なのか分からなかったが、時間があれば祖母の病室にいたような気がする。
「おばあちゃん、早く良くなって、また遊んでね」
「ああ、いいよ」
毎日いろいろな話をしたはずだったが、覚えているのはこの会話だけだった。
「おばあちゃんは、毎日この薬を飲んでいるんだよ」
と言って、白い錠剤を見せてくれた。
腕には点滴の針が刺さっていて、刺さっている場所はテープで止めてあって見えないが、痛々しさは感じられた。
その祖母が、ある日容体が急変し、あっという間に亡くなった。
「あれだけ元気だったのに」
両親は、涙ながらに消え入りそうな声でそう言った。
秋田はその時、涙が出なかった。
――どうして涙が出ないんだろう?
その時は真剣にそう思ったが、大人になると、
「本当に悲しい時、他の人に先に悲しまれると、涙が出てこないものなんだ」
と感じるようになった、
――自分は他の人と違う――
そう感じるようになったのは、祖母が死んだこの時からだったのかも知れない。
その後、しばらくして両親が言い争っているのが聞こえた。
「病院を訴えるって、証拠はあるのかい?」