次元を架ける天秤
――あなたたちは愛情を持って育てられているので、子供にどういう愛情を注いでいいのか分かっているはずでしょう? それを分からないなんて、本当にバカなのか、それとも、私をコケにしているのかのどちらかだわ――
と、考えてしまい、麻美は子育てグループから孤立してしまった。
頼れる人は誰もいない。
夫に対しても、一旦他人のように思ってしまうと、元の気持ちに戻ることはできないように思えた。
そんな時、目の前にいたのが、石狩教授だったのだ。
石狩教授は、麻美に対して別に愛情を持っているわけではない。本当に他人として接してくれていた。
ただ、優しかったのだ。
同じ優しさでも、夫として今まで愛してきたが、その相手を他人だと認識してしまったことで分からなくなった秋田と、それまで意識していなかったが、優しさが身に染みてきた石狩教授。自分のポッカリと空いた心の隙間に入り込んできたという意識はあったが、その心地よさに溺れてしまった麻美、不倫をする主婦というのは、そういう気持ちを持っている人も多いのではないだろうか。
そんな石狩教授に対し、「暗黒星」を麻美はかなり早い段階から結び付けていた。
確かに危険な星であるが、近寄ってきて心地よさを感じることで、今の自分の雁字搦めになっている精神状態を緩和させる作用があるのを感じたのだ。
夫である秋田教授は、妻の麻美の気持ちの変化にすぐには気づいていなかった。
――何かおかしい――
最初は、育児ノイローゼではないかと思っていた。
実際に、神経内科の診察券を発見したこともあったからだが、その時はあまり深く気にしていなかった。
「育児ノイローゼで精神内科に通う主婦はたくさんいる」
という話を聞いていたからで、自分の妻がもし精神的な病でも、すぐに治るだろうと思っていた。
秋田教授は、それよりも、
――麻美が自分で自覚して、自分から神経内科に通ったということに意義がある――
と考えたのだ。
しかし、実際は麻美が自覚したわけではない。
石狩教授が麻美を見て、
「神経内科への通院をお勧めしますよ」
と言ったからである。
実際に一度は神経内科を受診してみたが、当たり前のことを言われて、まともな治療もしてくれていないのに、お金ばかりが取られたという意識があったので、二度目以降は行っていない。
この時代には、医療費が社会問題になっていて、医者が過剰な治療や投薬によって、儲けようとする風潮があったのは事実で、麻美が怒りを覚えたのもそのせいだった。
「しょせん、病人を食い物にしているんだわ」
と思うと、病院嫌いの人が増えているというが、それもよく分かる気がした。
そのことを石狩教授に話すと、
「そう、君がそう思うのなら、病院にこれ以上通う必要はないよ」
と言った。
患者と医者の気持ちが一致していないのに、どんな治療を施そうとも、完全に元に戻るということはありえないというのが石狩教授の考え方だった。それは彼自身が医学に精通していて、医学以外の研究もしているからだった。そんな石狩教授を麻美は敬愛していたのだ。
石狩教授に麻美が急接近したのは、その頃からだった。
石狩教授も家庭内で、あまりうまくいっていなかったこともあり、麻美の接近に危険性を感じながらも、どこかワクワクした気分になっていた。
最初は相談相手だという意識だったはずなのに、いつの間にか麻美に傾倒していた。
――これが麻美の言っていた「暗黒星」の影響なんだろうか?
と、すぐに感じた。
石狩教授は、「暗黒星」の話を初めて麻美から聞いた。
――自分の知らない話を知っている女――
というだけで、石狩教授は麻美に興味を持った。
しかも、「暗黒星」の話は石狩教授にはセンセーショナルだった。
今まで、SF的な話はいろいろ知っているつもりだったのに、どうしてこの話を知らなかったのか不思議だった。
だが、本当は聞いたのは初めてではなかった。
石狩教授は覚えていないだけで、以前に聞いていたのだ。本当であれば、これほどインパクトの強い話を忘れてしまったというのは、、自分でも信じられないだろう。しかし、子供の頃に聞いたこの話は、石狩教授の中で、恐怖の話として、覚えることを拒否したという数少ない話だった。
石狩教授は、本当に恐怖に感じた話であれば、
「覚えないようにしよう」
という意識を持つことができるという能力があった。
簡単そうで、非常に難しいことであるこの能力は、限られた人間にしかないもので、彼らは少なからず、将来世の中の役に立つ功績を残せる人であった。
そういう意味でも彼らは、
「選ばれた人間」
と言えるのではないだろうか。
麻美が自分のことを「暗黒星」のような存在だと意識していることを、石狩教授は知らなかった。人のことが分かる人は、意外と自分のことを知らないもの。麻美も石狩教授はそんな人間だと思っていた。
尊敬できるところは、言葉を尽くしても余りある。しかし、自分のこととなると無神経なところがあり、人に対して失礼な言い方になってしまうことも往々にしてあった。
「学者肌だから仕方がないのかも知れないわ」
と、他の人は言っていたが、その言葉には痛烈な皮肉が含まれている。
「どうせ私たちとは、住む世界の違う人」
というイメージを持たれていた。
特に奥さんからそう思われているようで、別居の原因はそのあたりにあるようだった。
石狩教授は、それも仕方のないことだと思っていた。
「僕は女房のためを思っていろいろ考えているんだけどな」
と、教授は言っていたが、同じ女性として、奥さんの気持ちもよく分かる。
何といっても、自分だって大学教授の奥さんという立場だからである。
秋田教授の場合は、石狩教授ほど極端ではない。研究していることは、非現実的なものであることから、学者肌がもっと鮮明に出ていると思っていたが、そうでもなかった。研究の時が非現実的なのだから、逆に現実の生活の中では、却って現実的になっているのかも知れない。
「ここには秋田教授ほど、人間臭い人はいないかも知れないな」
と、石狩教授が一度話してくれたが、それ以降、秋田教授の話をすることはなくなった。大学に行けば交流はあるのだろうが、私生活では、あまり会う機会はなくなってしまっていた。
石狩教授の学者肌に対しては、
「これがこの人のいいところなのかも?」
と麻美は感じるようになった。
学者肌ではあるが、言っていることは、すべて本当のことである。他の人なら、オブラートをかぶせて話すようなことを、石狩教授は素直に話す。
――これのどこが相手の気持ちを考えているというの?
と最初は思ったが、逆の方向から見ると分かってきた。
石狩教授は、絶えず相手の身になって考える人だった。
「この人は、自分の口から本当のことを知りたいんだ」
と思うことで、本当のことにオブラートなど必要あるはずもなく、すべて正直に話していた。
相手の気持ちを考えていないように思うのは、自分が第三者として、第三者の目でしか見ていないから、無神経に見えるのであって、当事者間であれば、教授の態度は決して間違いではないだろう。