次元を架ける天秤
と、他人行儀な呼び方しかしなかった。
そのことに不満はなかったが、この日は少し不満だった。麻美は彼に何を望んでいるというのだろう?
「今後、僕の身に何が起こっても、君は気にすることはない。いずれ君の前に現れて、二人だけの生活をすることになるだろう」
麻美は一瞬、
「何を言っているの?」
と言いかけた。
もちろん、その言葉が発せられたとしても、それは当然のことであり、却って言葉を呑み込んだ方が不自然だ。言葉の重みはそれぞれで、教授の言葉にどれほどの重みがあるのか、麻美はすぐには理解できなかった。
その言葉は複雑な思いを抱かせる。
前半は破滅的な話だが、後半はその破滅からは救われるという話である。
元々麻美にとって石狩教授の存在は、そばにあっても、存在だけを感じることができて、触れることはできないもののように思っていた。かつて天文学者が創造したと言われる「暗黒星」。
天体の星は、自分から光を発するか、光に反射して、自分の存在を明らかにさせるものであり、それは地球上の物体すべてに言えることでもあった。しかし「暗黒星」というのは、光を自ら発しないどころか、自分に放射される光をすべて吸収してしまって、光をまわりに自分から放出することはない。
つまり、そばにあるにも関わらず、まったく気配を感じることのないものであり、存在自体、誰にも分かるものではない。こんなに恐ろしいものはないではないか。
「すぐそばにありながら、近づいてきても分からないということは、衝突して初めてその存在を知ることができる。『気が付いたら死んでいた』という笑い話が、笑い話ではなくなってしまうシビアな話である」
そんな星の存在を、今麻美は考えていた。
麻美は、SF小説を読むのが好きで、誰の小説だったが、そんな星の話を読んだことがあった。石狩教授の今の話とは少し焦点がずれていたような気がしたが、結果的には、この「暗黒星」の話に結びついてくるような気がした。
何かの根拠があるわけではないが、しいて言えば、
「私が最初に思い浮かんだのが、『暗黒星』の話だったから」
というのが、根拠と言えば根拠であろう。
石狩教授の話を額面通りに受け取ると、決して悲観的な話ではない。
「少しの辛抱だ」
と言ってくれているだけのことなのに、麻美は「暗黒星」の話を思い出してしまったがために、せっかくフォローしてくれた後半の話が、かすんでしまっていたのだ。
「人の話を聞いて、イメージが湧かない時は、自分の意識の中にある類似の話を思い出して、そこからいろいろな発想を思い浮かべることで、理解していくようにすればいい」
と言ってくれたのは、他ならぬ石狩教授だったではないか。
――石狩教授と一緒にいるだけでいい――
麻美はいつもそう思っていたが、次第にそれだけでは我慢できなくなる自分を感じていた。
最初は確かにそれで我慢できていたはずなのだが、それは石狩教授だけを見ていればよかった時のことだった。
しかし、麻美には現実の生活があった。自分には夫があり、子供があり、家庭がある。それを壊すことは、何があってもできないことだった。
優先順位でいけば、石狩教授は、家庭ありきの二番目だったはずである。
つまりは、気持ちに余裕がなければ、石狩教授を意識してはいけないと分かっているはずなのに、石狩教授といる時は、どうしても家庭を忘れてしまう。逆に言えば、家庭を忘れなければ、石狩教授と一緒にいる意義はないのだ。
言葉だけを並べれば、石狩教授への気持ちは「余計なもの」であり、冷静に考えれば考えるほど、
――あってはならないことをしようとしている――
と分かってしまう。
だから、なるべく石狩教授のことを考える時は、冷静になってはいけないと思った。矛盾が矛盾を呼び、収拾がつかなくなる。それが、
「不倫にのめり込む主婦の悲しい性」
であるということを、麻美は次第に気づいてくる。
しかし、気づいた時には遅かった。
元に戻ることはできなくなっていて、今取れる最善の策としては、
「家族に知られないこと」
ということしか考えられなくなっていた。
――どうして、こんな風になってしまったのだろう?
その時、思い出したのが「暗黒星」の話だった。
「暗黒星」の話を思い出したのは、今日が初めてではない。石狩教授との不倫が泥沼に入り込んで抜けられなくなった時に、初めて感じたものだった。
――そばにあるのに、まったく気づかなかった――
それが不倫をしてしまう人の悲しい性であった。
まるで不倫の相手を運命のように感じる人もいるだろう。不倫が悪いことだというのは一番自分が分かっていて、
「私にとって不倫なんて、他人事」
と思っていた人がほとんどだったはずである。
なぜなら、自分の中にある優先順位を絶対のものだと信じて疑わない自分がいるからで、夫の存在や家族の存在に対して、何ら疑いを持っていないはずだったからだ。
本当であれば、そんな完璧な気持ちの中に、他の男性が入り込むなどありえないはずである。そのありえないことが起こったということは、不倫相手の問題ではなく、自分の中で信じて疑わない優先順位の変化に自分が気づいていないということになるのだろう。
「優先順位の中にも優先順位がある」
つまりは、家庭を一括りにして最優先だと思っていたとすれば、最大の優先順位が夫になるのか、子供になるのかが分からなくなっているのではないか。
結婚した時は、夫が一番のはずである。その思いはたとえ子供が生まれたとしても、変わりはないと思っているだろう。
しかし、実際に子供が生まれてくると、母性本能から、子供が一番になることもある。
夫が一番だと思っていても、子供が生まれたことで、夫を見る目が変わる人もいるだろう。
麻美も子供が生まれたことで少し変わっていた。自覚があったわけではなく、夫への気持ちは、子供への愛情と違うものだということに気が付いたのだ。
急に夫が他人に思えてきた。
麻美は、あまり親から愛情を受けて育った方ではなかったので、今までの家族に対して、家族愛などというものを感じていなかった。もし子供が生まれたら、
「愛情を持って育てよう」
という思いを強く持っていたが、実際に生まれてくると、どのように愛情を注いでいいのか分からなかった。
自分が愛情を持って育てられたわけではないので、当たり前のことであり、それでも、
――唯一の肉親――
という思いで子供を見ていた。
そうなると、夫はやはり他人である。
確かに愛しているという気持ちに変わりはないのだが、子供に対して、愛情を感じてくると、夫への愛情が分からなくなってきた。なぜなら、自分がどうやって子供に愛情を注げばいいのか分からないからだ。
本当は、どこの家庭でも、その思いは同じはずなのだ。
まわりの母親も、
「どうやって子育てしていいのか分からないわ」
と言っていたが、麻美はその言葉をまともに信じられなかった。