次元を架ける天秤
二人の長い夜は、こうして始まった。
今思い出しても、麻美は頬が紅潮してしまう。石狩教授からは、
「もう昔のことだ」
と、すでに過去のこととして意識が記憶に変わっていることを知らされると、一抹の不安を感じながらホッとしている自分を感じ、複雑な思いに駆られる麻美だった。
お互いに若い時に始まった不倫ではなかった。
それだけに、濃厚な気持ちが二人を包む。
若い頃であれば、勢いと情熱で燃え上がって、歯止めが利かないが、二人のように熟年と言われるところから始まった不倫は、歯止めというよりも、お互いの結びつきがすべてだった。
どちらかが離れようとすると、相手は離さないようにしようと必死になる。自分だけが取り残されるのを怖がるからだ。
離れる方だって必死だ。
「このまま一緒にいれば、破滅は目に見えている」
と、我に返ったことで、不倫の恐ろしさを身に染みて感じるのだろう。
だから、熟年不倫のカップルが別れるというのは、なかなか難しく、一歩間違えれば泥沼の地獄絵図が待っているのかも知れない。
しかし、石狩教授と麻美の場合、別れる時はスムーズだった。
「もう終わりにしよう」
という言葉を聞いた麻美は、ショックを隠せなかったが、まったく予期していなかったわけではない。
それも、彼の態度から感じたことではなく、自分の中で感じていたことだっただけに、
「そら来た」
とも思ったはずだ。
さすがにいきなり切り出されると、どうしていいのか困惑を隠せなかったが、冷静になれば、別れることも最初から覚悟していたことだった。
「始まりがあれば、終わりは必ずやってくる」
という当然ではあるが、一番認めたくない言葉が脳裏をかすめた。
「このあたりでいいだろう」
何がいいというのか、すぐには分からなかったが、それが石狩教授の覚悟の表れであると分かると、麻美もそれに従うしかなかった。
別れたのが今から五年前、今では二人は一番のよき相談相手だった。
この日、麻美が訪れたのも、その相談からだったのだが、どちらからの相談になるのだろう。
「まあ、ゆっくりしてください」
「ええ」
何度も訪れている石狩教授の家、勝手知ったるとはいえ、さすがに緊張を隠せない麻美だった。
石狩教授の家を麻美が訪れるのは、本当に五年ぶりだった。
麻美の中ではもっと昔のことのように思えたが、そんなことはどうでもよかった。
「あまり変わっていないようだわ」
という言葉には覇気はなく、力の抜けた声なのに、低音は響いているように聞こえたのは、屋敷がそれだけ大きいという証拠でもあった。
ここで、石狩教授は一人で住んでいた。
ちょうど、奥さんとは別居中で、息子の健一もまだ幼かったので、一緒に家を出ていた。別居の理由に関しては、奥さんは何も言わなかった。
「言わなくても分かるでしょう?」
麻美のことを言っているに違いなかった。
別居と言ってもいるのは実家だから、別に心配はしない。石狩教授としては、別に離婚してもいいという思いを持っていたのだ。
石狩教授の先祖は、元華族たったという。子爵か伯爵と言ったところだろうか。没落したとはいえ、隠し財産がかなりあったのだろうが、今の石狩教授には、この屋敷は広すぎて、感覚などマヒしているに違いない。
――もし私が一人この屋敷を任されたら、どうなってしまうんだろう?
一人と言っても、世話をしてくれる人を何人か雇っていたので、本当の一人ではない。それでも、暖かさを感じることができないであろうことくらいは、麻美にも想像ができた。
麻美が以前、この家に遊びに来ていた時、麻美自身、すぐに感覚がマヒしてしまった。この家で最初から不倫をしていたわけではないが、何度目かの不倫の時、ホテルのベッドで石狩が言った。
「今度家にこないか?」
という言葉を思い出していた。
いきなりの申し出にどう返事していいのか困っていると、
「一度見せたいんだ。僕がどんなところに住んでいるかということをね」
家にやってきた麻美は、その大きさに愕然としたが、それは、家全体がまるで影のように黒く見えたからだ。
――黒くて重たい物体――
それが石狩教授の住んでいる家だった。
その日は、世話をする人たちにそれぞれ暇を出していた。あらかじめの措置である。麻美はこの屋敷にいる石狩教授が、自分の知っている石狩教授ではないという意識を持ち、違和感だらけだったのだが、
――これが本当のこの人なのかも知れない――
と思うと、次第に自分の身体が硬直していき、指先に痺れを感じるようになっていった。
――こんな状態になるなんて――
と思いながら、石狩教授の顔を見ると、恐ろしさでゾッとしてしまった。
石狩教授は微笑んでいたのだ。
――この人は私が金縛りに遭ったように動けなくなっていて、そして震えているのを分かっていて、微笑みかけているんだ――
そう思うと、これから一体何をされるのか、何をされたとしても、自分は拒否してしまうような気がして仕方がなかった。
奥の方にリビングがあり、そこに紅茶が用意されていた。リビングと言っても普通の家のリビングではない。まるで西洋のお城の晩餐会が行われるような無駄に広い空間で、たった二人の晩餐であった。
「どうぞ」
石狩教授が進めてくれたが、
――ひょっとして毒でも入っているんじゃないかしら?
と思うと、簡単に口をつけるのが怖かった。
「ふふふ、毒なんか入ってないさ」
といって、自分は一口口に含んで、紅茶の香りを楽しんでいた。
――これが華族というものなのかしら?
石狩教授という人は、表にいる時と、屋敷にいる時とで、まったく違う人格になる人だったのかも知れない。今まで誰にも見せたことのないこんな姿を、麻美に見せたいという思いになったとすれば、それだけ麻美のことを好きなのか、それとも逆にわざとこんな姿を見せて、嫌われようとしているのか、判断がつかなかった。
麻美も同じように口をつけて、一口飲んでみた。確かにおいしい紅茶ではあったが、すぐに味が分からなくなった。気持ちに余裕がなくなると、味覚はマヒしてくるようだった。
いや、味覚だけではない。他の感覚もマヒしてきていた。
最初屋敷に入った時に感じた「カビ臭い」という思いも、次第にマヒしてきた。ただこれはマヒしてきたというよりも、慣れてきたのかも知れないので、嗅覚に関しては、マヒしているという思いを抱かなかった。それなので五感の中で最初に感じたマヒしているという思いは、味覚だったのだ。
紅茶を嗜んでいる時間がどれほどだったのか、自分でも分からない。時間の感覚、これは五感ではないが、これも最初からマヒしていた。しかし、そのことに気づいたのは、紅茶を飲んでいる時間が終わってからで、
――ここに来てどれくらいの時間が経ったのだろう?
と思った時、我に返った自分は、今その場にいること自体、まるで夢のように思えていた。それも普通の夢ではなく、完全な悪夢だったのだ。
「麻美さん、こちらにどうぞ」
紳士のたしなみとしてのレディファーストを演じているつもりなのだろうか。完全に華族の血がよみがえっていた石狩教授は、この屋敷では絶対的存在だった。