次元を架ける天秤
他の先進国のような、圧倒的な実力主義ではないだけに、今まではいかに優秀であっても、離職はリスクを伴った。実力主義ではない国にとっての会社社会というのは、旧態依然とした年功序列の終身雇用が主流だったことで、何よりも安定が手に入った時代である。中途半端に優秀な人であれば、他に移るようなことはしなかった。しかし、時代が変わってくると、優秀な人材を引き抜くということも公然と行われるようになり、一時期、
「無政府状態」
とまで言われるような無秩序が蔓延りかけた時期があったのも事実だった。
そんな時代になったことで、大学でも企業と同じように研究所が営利を追求する時代になってきた。
もちろん、研究者の中には理想に燃えて、営利目的に走ることをよしとしない精神の下、研究に没頭している人もいる。石狩教授、秋田教授もそうだった。そして、息子の時代になっても、それは変わりなかったのだ。
研究所の中で、大きな派閥が生まれたのも無理もない。最初はその派閥は目に見えた形ではなかった。しかし、社会の変革とともに、研究所内でも、営利目的の研究室と、理想主義の研究所とが二分された。一般企業が手を結ぶのは、営利目的の研究室で、理想主義の研究所は一時期孤立してしまっていた。
「俺たちの研究も、そのうちにできなくなるかもな。このまま行ったら、研究所を去ることになるか、あるいは妥協して営利目的に走るかのどちらかしか道は残されていないんじゃないかな?」
という話がもっぱらだった。
しかし、
「捨てる神あれば拾う神あり」
ということわざにもある通り、彼らに助け舟を出すものが現れた。
「まさか国家が俺たちを助けてくれるとはな」
今までの国家であれば、決して助け舟を出すことなどなかっただろう。
彼らに助け舟を出したのは、国家の中でも秘密部門とされている部署で、公にできない部分も大きく含まれていた。
「これから先は、国家の最高機密に触れることもある。口外すれば命に関わると言っても過言ではない。それだけの覚悟が皆にあるかどうかだな。中途半端な気持ちだったら、今すぐここから去ることをお勧めする」
と、国家秘密組織の代表が、研究員に対して話をした。
その話を聞いて、さすがに恐ろしくなったのか、半分の人はいなくなった。そのうち数人は、営利目的の研究所に籍を移すことになったが、
「今のままいるよりも、よほど人間らしい」
と語ったという。
確かに、研究員の集まりである場所での新参者というのは、他の会社などに比べて、辛いことも少なくはない。それでも国家の機密に関わるよりも、はるかに気は楽だった。
そんな研究所において、秋田教授も石狩教授も、国家機密の研究所に残った。
最初は、いろいろ制約されて、
「まともに自分がやりたいことはできないかも知れない」
という危惧もあったが、実際にはそんなことはなかった。
しっかりとした研究スケジュールを立てて、それが承認されれば、営利目的の研究所に比べてはるかに自由がきいた。しかも、口出しされることもなく、黙々と研究ができる。
だが、表では常に監視の目が走っている。研究に没頭することができない人は、精神的に押しつぶされるのがオチだった。
実際に、精神に異常をきたして、入院した人もいた。
国立精神科病院へ入院することになったが、完全に表の世界とシャットアウトされている。
「まるで牢獄内のようだ」
という噂があったが、さすがに大きな声で言えることではないので、信憑性には欠けていた。それでも、誰もが感じていることだったので、そのことを信じない人もいなかったのも事実である。
石狩教授は、すでに研究員を卒業していて、自分で研究するというよりも、研究スケジュールを練ったり、各人の研究スケジュールの管理をする仕事をしていた。そういう意味では国家機密に直接かかわっていないこともあって、比較的表の世界との交流も自由になっていた。
ちなみに、秋田教授も同じで、石狩教授と二人三脚の状態であることは、誰もが認める事実だった。
さらに、二人が研究員として残した功績は一定の評価を受けていた。石狩教授は後三年もすれば、名誉教授の地位も約束されている。したがって、研究所内で一番自由に立ち回れる立場だと言ってもいいだろう。
石狩教授が奥さんの見舞に行くのは、毎日の日課だった。
午前中、研究所に顔を出して、研究所で昼食を摂ってから病院へと向かう。
病院は、国立の大学病院だったが、普通の病院で、病院内も自由だった。
「毎日、ご苦労様です」
毎日来ているので、看護婦さんとも顔見知りで、挨拶も気楽なものだった。
年齢的にはそろそろ五十歳を迎えようとしている石狩教授だったので、貫禄は十分だった。
「旦那さんは、教授だと伺っていますけど、どこから見ても教授としての貫禄に溢れていますね」
と、看護婦さんたちは、奥さんにそう話していた。
石狩教授が見舞いに来る時に、何度か麻美と一緒になることもあった。別に示し合わせているわけではないが、病室に二人で現れる姿を見て、奥さんはどう感じたのだろう?
実は奥さんは、そういうことにはあまり気づかない人だった。
もし、石狩教授が誰かと不倫をしていたとしても、気づくような人ではなかったのだ。
石狩教授が不倫をしていたという痕跡はなかったが、実際には不倫をしていた。相手は麻美だった。
いつから二人がそんな関係だったのかというと、秋田少年が小学生の頃だっただろうか。その頃になると秋田少年も、手が掛からなくなり、麻美もふっと気が抜けた時期だった。
その頃の秋田教授はというと、研究に没頭していて、まわりを見る余裕もなかった。
そんな旦那を見て、物足りなさを感じたとしても、不思議ではないだろう。
麻美は自分では、
「他の一般の旦那を持っている奥さん連中と、自分は違うんだ」
という意識があった。
本人はあまり意識していないつもりだったようだが、意識していないだけで、燻っていたものが見えてきた時は、自分の気持ちに気づいた麻美は、
「もう、後ろを振り向くのはやめよう」
と思った。
前を向いて歩き始めると、そこにいたのが石狩教授だった。
石狩教授は懐が深く、研究所では誰からも一目置かれていたように、教授に正面から見つめられると、誰もが自分の気持ちに正直になるようだった。
石狩教授に惹かれていく自分を感じていた麻美は、さすがに不倫というところまでは意識していなかった。
「あの方は尊敬できる人だけど、男性として見てはいけない」
と感じていたが、そう思えば思うほど、自分の気持ちにウソをついているように思えてならなかったのだ。
麻美は、石狩教授の懐の深さに溺れてしまった。
過ちは突然にやってくる。それまで警戒していたはずの気持ちがふっと切れた時、そんな時に限って、相手の気持ちを感じてしまう。そうなると、抑えが利かなくなるのだ。
「ここで後ろを向いてしまうと、私はここから動けなくなる」
と感じた。
「前に進むも、後に戻るもどっちも地獄なのかも知れない」
と思うと、前に進むしか選択肢は残されていなかったのだ。
「麻美さん」
「教授」