次元を架ける天秤
麻美は、大学時代にある男性を好きになった。麻美が結婚についてそれほど深く考えないようになったのは、その時に付き合っていた男性が原因であった。その男性は音楽を志していて、バンドを仲間と組んでいて、その中のギターを担当していた。
メンバーは五人。その中でも彼はモテる方だった。
麻美は元々、あまりモテる男性は好きではなかった。
「モテる男性を彼氏に持ったら、いつも嫉妬していないといけなくなるでしょう?」
と言って、女友達の前で笑って見せたが、その気持ちにウソはなかった。
しかも、イケメンの男性というのは、裏と表を持っていて、その顔をうまく使い分けることで、何人もの女性と付き合っているという妄想を抱いていたのである。
それは学生時代に読んでいたマンガの影響である。
大学に入ってからマンガを読むこともなくなったので、マンガが好きだったということを知っている人は今では誰もいなくなっていたが、マンガを描いていたという秋田と、知らないところで結びついていたというのも、ただの偶然だったのだろうか。
マンガを読んでいて、イケメンの男性が出てくると、ヒロインの女の子が騙されるシーンがやたらと頭に残っていた。
いつも騙されているわけではないが、最初に騙されているのを見てしまうと、その印象が残ってしまい、どうしても、イメージを払しょくできないでいた。まるで生まれた時、最初に見たものを親だと思ってしまう雛のようではないか。
そういう意味では麻美は、
――思い込みが激しい――
と言え、それと同時に、
――思い入れが激しい――
ともいえるだろう。
そのイケメンバンドマンは、いつも誰かに騙されていた。
と言っても、それほど大きな事件になるわけではなく、
「少し、お金を貸してくれよ」
と言われて、
「しょうがないな」
と言いながらも用立ててやると、そのまま踏み倒されることが多かった。
金額的には些細な金額なので、それほど騒ぎ立てるものでもない。下手に騒ぎ立てて、貸した相手が開き直ってしまうと、今度はまわりから、
「まあまあ、ここは冷静に」
と言われて、まるで騒ぎ立てた自分が、その場の雰囲気を壊したことで悪者にされてしまう。
それでもムキになろうものなら、
「それっぽっちのお金でメンバーの絆を壊すこともないだろう。お前も早く返してやれ」
とリーダーに言われて、借りた相手は悪びれることもなく、
「はい、分かりました」
と、言ってのける。
こうなってしまうと、場が完全に収まってしまい、それ以上何も言えなくなる。下手をすれば、
「そんなはした金で、ギャアギャア騒ぎ立てるあいつも、大人げないな」
と思われかねない。
そんな雰囲気になってから、イケメンの彼は他の連中からも、カモにされるようになった。一番最悪の形である。
本人は知らなかったが、最初から彼をカモにしようというのは、メンバーの中で決まっていたことだった。中に入って諫めていたリーダーも、どうやらグルのようだった。
もちろん、お金の無心も、大した金額ではない。少額ではあるが、今まで一人だったのが、三人、四人になったのだ。溜まったものではない。
もし、断ったりすると、
「お前、あいつに貸したのに、俺には貸せないっていうのか?」
と言われる。
つまりは、今から思えばあの時騒いだのは、すべてこの既成事実を作るための計画だったのだ。
それにしても、そこまで綿密に計画しているというのもすごいものだった。
ただ、彼らはそうやってイケメンからお金をむしり取ってはいたが、そのお金を無駄使いしたわけではない。これから自分たちがデビューするために必要な金を貯蓄しておくためのものだった。
イケメンは、金持ちの家に生まれて、高校時代の反抗期の時に、バンドに軽い気持ちで参加したことから、バンドの虜になっていた。大学で、バンドを志す連中と知り合いになれたのも運命だと思い、一時は有頂天になっていた。それだけに、仲間の申し出には断れなかったのだ。
彼らとしても、
「このままあいつを傷つけるのはまずいんじゃないか?」
という話も出ていた。
リーダーとしても、
「そうだな。お金もだいぶストックできたことだし、取り返しのつかないうちに、彼に本当のことを話して、関係を修復しないとな」
と言って、メンバー集会と銘打って、メンバーが一堂に会した。
「実は、お前に折り入って話がある。本当に言いにくいことなんだが……」
と言って、リーダーは恐縮しながら話した。
それを聞きながら彼は俯いたまま、前を見ることができず、わなわなと震えていた。
「これはまずい」
皆、そう思ったことだろう。
しかし、彼は何も言わない。そして話がすべて終わった後、
「なんだ、そういうことか。それなら最初から言ってくれればいいのに。じゃあ、あのお金は俺も権利あるんだよな」
「ああ、本当に済まなかった」
と、全員で彼に頭を下げた。
「いいんだよ」
と言って、その場はそれで終わった。
しかし、一度傷つけられたプライドは、そう簡単には元に戻らない。
「何をいまさら、騙しているんだったら、最後まで騙し続けてくれればいいのに」
と思った。
彼の目からは、止めどもない涙が流れていた。今まで、騙されていた状態の彼を慰めてきたのが、麻美だった。彼も麻美がいてくれるから、自分の屈辱的な立場に我慢ができた。
しかし、メンバーから本当のことを聞かされてしまうと、今度は自分の気持ちのどうすればいいのか、持って行き所を失ってしまった。
「もう、麻美を相手に慰めてもらう気にはならない」
麻美に対しては、
――金をまわりからむしり取られて、まわりにカモにされている――
という情けない自分だから、相手をしてくれていたと思っていた。
立場が変わってしまうと、麻美と今度はどう接していいのか分からない。今一番会いたくないのが麻美になってしまった。
麻美の前から姿を消したくなってきた。どうせ、メンバーとはもう一緒にはいられないという気持ちを固めていたのだ。
彼は皆の前から姿を消した。大学も中退し、完全にどこに行ってしまったのか分からない。
麻美は彼のそんな事情はまったく知らなかった。いまさらメンバーに会って、彼のことを聞くという気にもなれなかった。
麻美の中で、
「彼から裏切られたんだわ」
という思いが浮かんだ。
それまでは、
「私が至らなかったからなのかしら?」
と思っていたが、ここまで煙のように忽然と消えてしまっては、何を信じていいのか分からなくなるのも当然であった。
それにしても、彼は本当に忽然と消えてしまった。
大学を中退したのも、あっという間の出来事で、まったく躊躇したということも考えられない。
「本当に煙のように消えてしまった」
そう思うと、今までの自分が彼の何だったのかを想像すると、怒りしか浮かんでこない。そしてその怒りは、笑いを誘った。
「何て滑稽なのかしら?」
喜劇を見ているようだった。
その時麻美は、自分がもう一人の自分になって、笑っている自分を見ている気分になっていたのだ。
――結婚なんて、私にできっこないわ――