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次元を架ける天秤

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「本当に順風満帆の生活よね。怖いくらいだわ」
 と、麻美は言っていたが、新婚の夫としては、一番新妻に言わせたいセリフだったに違いない。
 しかし、秋田教授の様子が変わってきたのは、子供が幼稚園に通うようになってからだった。それまでは放任主義だった父親が、急に子供の教育について口うるさくなった。母親と教育方針でぶつかることもしばしばで、そんな両親を見ていて、父親に対しての「反面教師」の想いが浮かんできたのも、無理もないことだっただろう。
 その頃から、秋田教授はある研究に没頭するようになっていた。研究所に何日も泊まり込むようになったのもその頃からで、たまに帰ってきては、子供のことについて妻と議論してしまう。
 秋田教授にとって、研究室での研究は、どうやらタイムマシンのようだった。しかし、同じタイムマシンと言っても、他の人が研究しているものとは違っていた。どこが違うのかは分からなかったが、そのことを教えてくれたのは、石狩教授だった。
 石狩教授は、秋田教授の変貌が気になっていた。実は妻の麻美が気づくよりも先に石狩教授の方が分かっていた。同じ研究所にいるとはいえ、研究はまったく別分野、同じ大学に在籍していても、学部が違う学生同士と同じようなものである。
 しかも、自分の研究に没頭していれば、他の人のことなど分かるはずもない。それを思うと、
「ひょっとして、この時期、夫と石狩教授は一緒に研究していたのかも知れないわ」
 と麻美は感じるようになっていた。
 元々、頭の切れる麻美であった。夫のことを気にし始めると、他の誰よりも彼のことを分かっていると自負していた。だから結婚しようと思ったのだし、まわりには石狩教授夫妻のような頼もしい人がついているということも、結婚の決め手になったのだ。
 それなのに、二人のことも、秋田の性格的なことも、最初に感じていた思いとは裏腹に、分かっているつもりだったが、急に変わってしまったことが、石狩教授に関りがあるとは、最初は信じられなかった。
 麻美は、石狩教授に近づくことを決めた。もちろん、最初は石狩夫人にいろいろ聞いてみてのことだったのだが、その頃ちょうど、石狩夫妻には不穏な空気が流れていて、一触即発の様相を呈していた。
 それは、秋田夫妻の間にも起こったことと同じことが起こったのだが、そんなことは誰にも分からない。分かっているとすれば石狩教授だけだっただろう。
 しかも、そのことにいち早く気づいたのは、秋田教授だった。
 秋田教授は自分の妻が石狩教授に近づいているのに気づいていたが、見て見ぬふりをしていた。秋田なりの計算があったのだ。
 麻美は石狩教授と話をするのが好きだった。
――もし、秋田と結婚していなければ、私は石狩教授のような人を好きになっていたかも知れないわ――
 麻美には、まわりの女性ほど結婚願望があったわけではない。秋田教授と結婚したのも、秋田教授のことを気に入っていたのは当然のことだが、結婚に至らなくても別にいいと思っていた。まわりがお膳立てを立ててくれ、
「もう、結婚しなければいけない」
 という雰囲気になっていることに気が付いたことで、結婚を決めたのだ。
 同じ結婚するにしても、他の人とは決断という意味では大きな開きがあった。
 それでも、結婚してからの麻美は献身的だった。
 夫が教授ということもあり、まわりからは、
「玉の輿に乗ったじゃない」
 と冷やかされたが、それも別に悪い気はしなかったので、
「そう? そんなことはないわよ」
 と、無表情で答えていた。
 こんな時に、
「そら来た」
 と思い、嬉々として自慢げに話す人がいるが、麻美はそんな人の心境が信じられなかった。まわりが冷ややかな目で見るのが分かっていたからである。
 しかし、旦那に死なれてしまってからの麻美は、そんな主婦の小さな楽しみが羨ましく思えてきた。
――こんなことなら、もっといろいろな感情を表に出しておけばよかった――
 と感じたのだ。
 まさか、こんなに早い別れがくるなど思いもしなかった。子供はまだ中学生、しかも反抗期で、父親のことを憎んだまま父親と二度と会えなくなってしまったのだ。
――私が、石狩教授に相談に乗ってもらったことも、今となっては、無駄になってしまったわ――
 というよりも、石狩教授に少しでも心を許す気になった自分が恥ずかしいとも感じていた。
 石狩教授に話を聞いた時、
「そうだね、秋田君は少し今までに比べて神経質になっているような気がするね」
 と言っていたが、それを聞いた麻美は、
「ちょっとなんてものではないですよ。元々冷静沈着だったあの人が、子供が見ている前で私を罵倒するようになったんです。私はいいんですが、それを見ている息子がどう感じるのかと思うと、自分が受けている恥辱よりも、子供がどんな気持ちでいるかという方が私には怖いんです」
 それを聞いた教授は考え込んでいたが、
「秋田君は、そんなことをするような人間ではないんだけどね。やっぱり彼の中で何かのスイッチが入ったのかも知れないね」
「と言われますと?」
「人というのは、誰もが裏の面を持っているんじゃないかって思うんですよ。表の部分を強調しようとすればするほど、燻っていたはずの裏の部分が表に出ようとするんじゃないかと思うことがあります」
「それは、二重人格ということですか?」
「そうだね。躁鬱症と一緒に考える人もいるけど、躁鬱症とは分けて考えた方がいいんじゃないかって僕は思っているんだ」
「そうですね、実は私も躁鬱症のところがあると言われたことはあるんですが、二重人格だという自覚はないし、言われたこともないですね」
「躁鬱症の人が二重人格なのかというとここに関連性は薄い気がするんだけど、二重人格の人が躁鬱症である可能性は、結構高いんじゃないかって思うんだよ。人というのは、第一印象があって、そこからいろいろ話をしているうちに相手の性格が分かってくる。二躁鬱症というのは、二次的な性格であって、二重人格というのは、どちらもその人の一時的な性格だと思うんだよね。二次的な性格というのは、その人の性格を見て、その人の内面がどうなっているかと考えた時、躁状態になったり鬱状態になったりするのが見えた時、躁鬱症だって感じることになるんだよ」
「なるほど、最初に二重人格かどうかが分かって、そこから躁鬱が見えてくるという考え方ですね?」
「一概に皆が皆そうだとは言えないんだけど、普通に相手を見ていると感じる順番通りなら、躁鬱症の人が二重人格なのかどうかという可能性は、低いんじゃないかって思うんだ」
 石狩教授の話は分かりやすかった。
 石狩教授は医学部門の権威だと聞いていたが、心理的なことも十分に分かっているようだ。石狩教授の話を聞きながら麻美は、秋田のことを思い浮かべていた。
 確かに結婚した時から、どこか余裕のない雰囲気は窺い知ることができた。しかし、他の男性のように、裏表を感じさせるところがなかったのが、麻美が結婚相手を秋田に決めた一番の理由だった。
作品名:次元を架ける天秤 作家名:森本晃次