次元を架ける天秤
核兵器を持った国が暴走を始めて、まわりの国を挑発することで、世界は一触即発の危機を迎えたことがあった。
その時は、偶然がいい方にいくつも重なったことで危機を逃れることができたが、国の上層部の一部の人しか知らない事実だった。どうして危機を免れたのかということを世界の大多数の人はハッキリとは知らされていない。毎日のようにニュースやネットで煽っておきながら、一気に収束してしまった結末に誰もが拍子抜けしたことだろう。
そのことで、それ以降何度か国際的に危機があったが、一般の人の反応は冷ややかだった。
――まるで他人事――
それも当たり前のことだった。
政治や政府に対しては無関心になり、そういう意味でも、政府と関連のある研究所の存在を国民が知らなかったのも、うなずける。知ったとしても、別に大きな問題にはならないはずだったのだが、リークとなれば別だった。それだけ、国民は平穏を望んでおり、平穏を脅かすものには敏感なのだ。
国民が刺激を求めていないわけではなかった。
民間企業では、国民の刺激を誘発するような製品の開発を率先しておこなっていた。
ゲームやギャンブル。コンピュータやタブレットのアプリ開発など、激戦だった。
さらには、性風俗に対しても刺激を求めるという意味で、国民の間で市民権を得ていた。もちろん、国家的には市民権を得ていたが、どうしても後ろめたい気持ちもあってか、なかなか、性風俗というと、個人で正当化できない人も多く、ほそぼそとした営業を余儀なくされ、しかも、市民権がありながら、警察からの規制も受けている。
だが、刺激を求めるという意味で、性風俗は爆発的に人気を得た。結婚しない人が増えたのもその一つで、
「お金で、癒しを買う」
ということが倫理的に悪いことではないという評価を受け、幾種類もの風俗が生まれた。
昔からの性風俗は伝統として、芸術として見られるようにもなったし、新たな風俗は、安価で手軽なので、
「コンビニ風俗」
とも呼ばれた。
しかし、それも最初だけで、物珍しさからの新興風俗はすぐにすたれていったが、その分、残った風俗の地位は完全に確立された。
「風俗なら不倫にも浮気にもならない」
ということで、結婚していても夫に風俗を推奨する奥さんもいるくらいだった。
また、女性向けの風俗もこの時に確立していた。
それまで女性向けの風俗は限られていて、さらにあまりいいイメージを持たれていなかったこともあったが、
「男女同権」
という見地からも、刺激を求める国民性が表に出てきた時、この思想も、一緒に爆発していた。
「二十一世紀も、最初の頃と、かなり変わってきた。科学の発展と、世の中いつどうなるか分からないという発想から、今を楽しみたいという思いが強くなったせいなのかも知れない」
という分析をしている風俗学者もいた。
国家公認の研究所が国民の知るところになると、国家に対しての興味を持つ国民も少しずつであるが出てきた。特に科学者を目指して大学で研究している人のほとんどが、
「民間に行くよりも、国立研究所の方がいい」
という人が多い。
待遇に関しては公になっていないのにそう思うというのは、それだけ民間に対しての就職に疑問を持っている人が多いということだろう。
それは研究員に限ったことではない。一般でも同じことだった。
「民間に就職するより、公務員になった方がいい」
というもので、その理由としては、
「民間の企業は、競争主義が根付いている。公務員は規制や制限も多いけど、神経をすり減らすところまではない。今を楽しみたいと思うなら、公務員の方がいい」
昔も、民間より公務員の方が人気があった時代があったが、その時とは発想が逆である。昔の発想は、
「公務員になれば、給料は安いけど安定していて、将来を考えると公務員の方がいい」
というものだった。
国民性が変わったことで、同じ発想でも百八十度変わってしまうというのは、国民性というものが集団意識の塊だという意識を再認識させられるものだった。
そんな状態が二〇六四年という時代である。
科学の進歩は目まぐるしいものではあったが、民間の研究所ではたかが知れていた。裏で国家公認研究所が暗躍していたことは知られていないが、国家研究所が民間に介入するようになったのは、ここ十年くらいのものだった。
生え抜きの研究員を育て、その中から今度は民間に派遣するようになる。
もちろん、民間の方では、彼が国家公認研究所の出身者だとは知らない。履歴書も適当に作り変え、もし調査されてもいいように、マイナンバーも操作されていた。いずれは彼の身元が分かってもいいと思っていたが、それもタイミングがあった。それまではひた隠しにするのが必須だったのだ。
「いよいよ第二段階に入ったな」
「そうですね。リークがあった時はビックリしましたけどね」
「でも、それも元々計算してはいたからな。問題はタイミングなのさ。だから今度こそ、タイミングを逃すことのないようにしないといけないな」
「ええ、心しておきますよ」
というような、政府高官と、研究所の所長との会話が聞こえてきそうだった。
実際にそんな会話が繰り広げられていたかどうか、誰にも分からないが、今では結構解放された環境になっているので、研究所にはいつでも風が吹き抜けているような雰囲気だった。
「国家って何なんでしょうね?」
そんな声も聞こえてきそうな研究所内部だったが、誰もが思っていることであり、口に出すか出さないかの違いだろう。
ただ思っていても、そのことを確かめるようなことは誰もしない。そんなことをする必要もないほど、今は居心地がよかったのだ。
狭く静かな通路に、靴音だけが響いていた。その音も次第に小さくなっていき、研究所内になる一室から人の気配が感じられたのは、それから少ししてのことだった。
人の気配は一つではなかった。複数感じられたが、そんなにたくさんではない。二人か三人と言ったところだろうか。耳を澄ませば、話し声が聞こえてきた。
「石狩先生の父親が行方不明になったって話は聞いたことがあったけど、それっていつのことなんですか?」
「もう、五年になるかな?」
どうやら話をしているのは、石狩健一研究員と、その助手に当たる秋田修二だった。
石狩健一研究員は、年齢としては三十歳を少し過ぎたくらいだが、大学時代から秀才の名をほしいままにし、大学院から研究所員になったという研究者のエリートコースを歩んでいた。
彼の父親は石狩健太郎博士で、彼もこの研究室での研究が長かった。医学博士としての地位も確立されていて、よくテレビなどのマスコミにも顔を出していて、行方不明になった時は、かなり話題になったものだった。
石狩博士が行方不明になったのは突然のことだった。
家族にとっても寝耳に水で、失踪した時、失踪に関する文章は何も見つかっていない。まるで神隠しにあったかのように忽然と消えたのだ。