次元を架ける天秤
秋田も、研究している時は、まわりのことが見えなくなるほど集中しているが、研究所を離れてまで、没頭したいと思う方ではなかった。
――メリハリをつけなければ、できる研究も中途半端に終わってしまう――
と考えていたのだ。
メリハリをつけるための趣味も持っていた。
この趣味を知っているのは、研究所では石狩教授だけだろう。ただでさえ人との会話に入ることのない秋田のことなど、他の研究員誰もが気にするわけもなかったからだ。
「僕は学生の頃から、実はマンガを描くのが趣味だったんですよ」
「ほう、それは珍しい」
「何度かマンガ関係の新人賞に応募もしましたが、結局はダメでした」
「それなのに、どうして研究員になんかなったんだい?」
「僕の描くマンガは、SFが多かったんです。タイムマシンだったり、宇宙旅行だったり、惑星大戦争だったりと、壮大なものを勝手に想像し、勝手に描いてきた。僕は、『想像』じゃなく、『創造』だと思っていたんですよ」
「ということは、SFをサイエンス・フィクションではなく、サイエンス・ノンフィクションだと?」
「そうですね。実現できるはずのものを、僕がマンガで描くというのがマンガを描き続ける意義だったんですよ」
「それで、マンガだけではなく、『想像』の世界を、本当に『創造』してみたくなったというわけだね?」
「ええ、そうなんです。マンガを描きながらの勉強は辛かったですが、今から思えば楽しかったですね。責任を感じなくていいわけですからね」
「でも、責任のない目標ってどうなんだろうね?」
「僕はそれが夢というものだと思うんですが、今から思えば、夢を追いかける方が、こうやって研究員になって責任の下、研究に没頭する方が楽な気もします」
「君の言っていることには矛盾があるんじゃないかい?」
「確かにそうなんですが、僕は辛かったと言いましたが、嫌だったとは言っていないんですよ。嫌だったら、すぐにどちらかをやめていたでしょうね。それだけの選択肢はありましたからね」
「それでもやめなかったのは、君のいう『楽しかったこと』のおかげかな?」
「そうですね。僕が感じたのは、やっぱり、『想像』ではなく『創造』だという思いだったんですよ。その思いがあったからこそ、楽しかったんですよ」
「『創造』というのは、実現可能なものを、自らが作り出す。つまり先駆者(パイオニア)になるということだね?」
「その通りです。僕がマンガを描き始めたのも、何もないところから何かを作り出したいという思いがあったからです。それこどまさしく『創造』なんじゃないですか?」
「その気持ち、よく分かるよ。僕が研究員になった最初の意気込みも、君と同じ『創造』への憧れだったんだからね」
「教授と同じで光栄です」
「いやいや、その気持ちがあって、さらに努力が繋がることで、最年少での教授という地位を手に入れたという意味では、君は立派に功績を残したことになる。そして、君の研究の成果を待ち望んでいる人たちがたくさんいるのも確かなことなんだからね」
「それは教授にも言えることですよ。お互いに頑張ろうと思うのは、待っている人の存在を感じることができたからなんだって、僕は思うようになりました」
ここで話し疲れたのか、二人は少しトーンダウンした。
そのことに気づいたのか、
「そういえば、このお嬢さんも、マンガが好きだって言ってましたよ」
と奥さんが口を挟んだ。
「ほう、、それは面白い。同じ趣味を持っているというのは楽しみなことだ」
「さっき私が、秋田さんとお嬢さんがそれぞれお互いを成長させる力があるって言ったけど、同じ趣味を持っているということを聞いて、自分の感じたことに、いまさらながら信憑性を感じていますよ」
「僕もなんだか、そんな気がしてきました。奥さんが感じてくれたこと、大切にしたいって思いますよ」
「嬉しいわ。じゃあ、秋田さんもこのお話に乗り気だと思ってもいいのかしら?」
「ええ、よろしくお願いします」
この場の雰囲気というのもあったのだろうが、秋田はすっかりその気になっていた。
本当にその場の雰囲気だけであれば、一人になった時、
「どうしてあんなことを言ったんだろう?」
と、後悔の念に襲われるに違いなかったが、一人になっても、今度はワクワクした気持ちが湧き上がってくるのを感じ、
――こんな感覚今までにはなかったな――
と思うようになった。
彼女の写真が頭から離れなくなり、
「僕は、写真だけで女性を好きになってしまったのか?」
と思うほどになったのは、あの時に三人で会話した内容が、確かに興奮するべきほどだったはずなのに、時間が経つにつれて、次第に薄れてくるのを感じたからだ。
――こんなことってあるんだな――
と、あの時の会話が、まるで夢を見ていたかのように思えてきたのだ。
見合い相手の名前は朝倉麻美、二週間後の日曜日、ホテルのロビーで会うことが決まった。いつもの白衣とは違ってスーツ姿の自分も嫌いではない秋田は、内心心待ちにしていた。
「麻美さんに嫌われたくはない」
相手に好かれたいなどという思いは、おこがましいと思っていた。
本当は好かれたいはずなのに、正直に好かれたいという思いを表に出すと、露骨に見られて嫌われると思ったのだ。
「まずは嫌われないこと」
これが一番だった。
段取りは、「おせっかいな見合い斡旋のプロのおばさん」と、石狩夫人がすべて整えてくれた。相手の人はさすがにお嬢様と言われるだけのこともあって、世間知らずのようだった。
しかし、実際に会ってみると、その思いは少し揺らいだ。今まで女性と付き合ったことがなかったわけではない秋田教授だったが、お見合いともなるとかしこまった感覚になり、緊張で身体が固まってしまいそうになるのだった。
「秋田君、昨夜は眠れたかね?」
石狩教授にそう声を掛けられ、思わず苦笑してしまった。
「研究所に籠っている時間と違って、夜がここまで果てしなく長いなんて思ったことなかったですね。一時間が経っているだろうと思って時計を見ると、五分しか経っていなかったりしますからね」
石狩教授も、
――しょうがないな――
という表情を浮かべ、
「そりゃダメさ。時計なんか見たら、余計に意識してしまうさ。熱っぽい時に体温計を見て、余計に気分が悪くなってしまうってこともあるだろう。それと同じなんだよ」
「それもそうですね」
秋田は、基本的なことを忘れていたようだった。
それだけ緊張しているともいえるが、本番は大丈夫であろうか?
約束の時間まではまだ十五分以上あったが、この十五分も、秋田にとってそれほどの長さのものになるか、興味深かった。さすがに夜眠れない時間を過ごしているよりも気は楽であったが、まずは相手の顔を見て、第一印象をどう感じるかが、一番の問題だった。
「お待たせしました」
例のおせっかいと評されているおばさんが先に立って、挨拶した。
――どんなすごいおばさんが出てくるのかと思ったけど、普通のおばさんじゃないか――