次元を架ける天秤
「その通りです。だから、もっと人間に近い研究をされている教授なら、余計に検証はしっかりしないといけないと思ったので、余計なことを申してしまい、申し訳ありませんでした」
「いやいや、いいんだよ。君の言っていることは正論だよ。でもね、私は少し違うことを思っている」
「というと?」
「さっき君が言った『副作用』という問題。僕も最初は助手と一緒に検証していたんだけど、どうしても分からないところがあった。でも、プロセスを助手に任せて、結果だけを検証するようにすると、それまでしっくりこずに違和感があった検証結果に、一筋の光明が生まれたんだ。それを口で説明することは難しいが、分からないということはしっくり来ていないということで、そんな時は、目先を変えてみるのが一番なんじゃないかって思うようになったんだ」
そういって、石狩教授はコーヒーを半分飲み干した。
「それで目先を変えたことで、何か見えてくるものがありましたが?」
「そう簡単にはなかなか見えてくるものではないよ。元々の研究があって、そこに副作用が伴ってくる。副作用と言っても、いいものもあれば悪いものもある。決して悪いものばかりではないだ。逆に元々の研究もいいものだけとは限らない。自分が望む望まないに関係なくしなければいけないものもあるんだ」
「それは上からの命令という意味ですか?」
「それもあるだろうけど、緊急を要する時だね。人が目の前で死を迎えようとしている。放っておけば確実に死んでしまうという時だね。そんな時は、検証が完全に終わっていないものに関しても使用してしまうことがある。当然、副作用など考えていない場合だね」
「でも、それは仕方のないことではないんですか? 人が目の前で死のうとしているのを黙って見逃すのは、罪以外の何物でもないような気がしますけど?」
「果たしてそうだろうか? 私は別に特定の宗教を信じているわけではないけど、人には寿命というものがあるんだ。自然の摂理に近いものだね。それを狂わすことが怖くなることだってあるんだよ。特に目の前に死を迎えようとしている人がいるという現実に面と向かった時などはね」
「ええ、でも自然の摂理というと?」
「自然界というのは、弱肉強食なんだよ。生物はすべて栄養を摂らなければ生存することはできない。だから、弱い者は、強い者の餌になるんだよ。餌になった動物だって栄養を摂るために、さらに弱い動物を餌にする。逆に餌として食べた動物も、さらに強い動物から食われることになるんだよ」
「ええ」
「でも、動物の数は変わらないだろう? 一番強い動物だけが反映して、弱いものが餌になることで絶滅することはない。そこに循環が存在するのさ。一番強い動物は餌にならないからと言って増え続けても、今度は餌になる動物がいないのだから、待っているのは餓死しかないよね。そうなると、結局最後にはすべてが絶滅してしまうことになるんだ。絶滅しないために存在する循環こそが、自然の摂理と言えるのではないだろうか?」
「ということは、人にはすべて運命があって、本当はそこで死ぬはずの人を助けてしまうことが自然の摂理に逆らうことになるとお考えなんですか?」
「それは分からない。ひょっとすると、自分たちが延命させることも、その人にとっての運命の内なのかも知れないからね。人を助けるのが医学を志すものの使命であるため、目の前に死にそうな人がいれば助けてしまう。でも助かってから、本人や家族からお礼を言われたりすると、余計に自分がしたことが本当によかったことなのかって思えてならないんだ」
「分かります」
「しかも、副作用に関しての臨床試験が完全でなければ、いくらその時に助かったとしても、もし副作用が悪い形で表に出てくれば、どうなるというのか? そのままあの時、死を迎えさせてあげた方がよかったと思うかも知れない。それが僕たち医学者には耐えられないんだ」
苦悩に歪んだ石狩教授の顔は、誰にも見せたことのないもので、後にも先にもその時だけだったかも知れない。秋田教授は、
――石狩教授の本音を見た――
と感じたのだ。
自然の摂理の話は、秋田教授にも理解できた。
自分たちが研究している世界は、そのほとんどが架空の発想であり、漠然としたものでしかない。理論だけが先走ってしまい、掴みどころのないものなのだが、社会的にも産業としても、期待されていることは間違いない。
医学とは違う意味で注目される研究。秋田教授も、時々やりきれない気持ちになることがあったが、そのせいでかなりストレスが溜まっていた。石狩教授の苦悩も分かるだけに、お互いに気が合うものだと信じ、
――この人とだけは、本音で付き合うことができる。いや、本音で付き合わなければいけない人なんだ――
と思うようになっていた。
「副作用というのは一種類なんですか?」
ふと秋田教授は不思議な質問をした。
「どういうことなんだい?」
「薬による副作用というのはよく聞きますが、薬だけではなく、精神的なところでの副作用というのもあると聞いたことがあります。石狩教授の研究していることが精神的なことに関わっているかどうかは分かりませんが、教授はいかにお考えなのかと思ってですね」
「秋田教授はさすがに架空の発想を研究しておられるだけのことはある。私も副作用の話を研究員といろいろしましたが、精神的な副作用にまで言及した人はほとんどいませんでしたからね。確かに秋田教授の言われる通り、精神的な副作用も存在します。精神的な副作用は、まわりから見ると副作用というイメージはないかも知れません。精神的に参っていく過程であったりしますからね」
「それは、躁鬱症という意味ですか?」
「それもありますね。躁鬱症というのは、誰にでも陥る可能性のあるものなんです。なぜなら躁鬱症に起因する精神状態を、普段から潜在させているからなんですよ」
「潜在意識?」
「ええ、その通りですね。潜在意識というのは、かなり漠然とした表現なので、なかなか潜在意識という表現で会話されることはないと思いますが、夢という形のものを話題にする人は少なくないでしょう」
「確かに、夢というものは潜在意識が見せるものだって聞いたことがありますよ」
「ええ、よく言われることですね。私もその考えに間違いはないと思っていますよ。でも夢のメカニズムに関してはまだまだ解明されていることはないですから、いろいろな憶測も言われています。それでも、火のないところに煙は出ませんから、それなりの信憑性はあると思っています。もっとも、そう思わないと、考えが先に進まないからですね」
秋田教授も石狩教授との話に共鳴できるところはかなりあった。科学の研究も心理学や医学のメカニズムなくして成り立たないものだという持論があるので、石狩教授の話を他の人とは違う切り口で見ることができるのだった。