次元を架ける天秤
山を見ていたはずなのに、雲が出てきたことで雲に視線を奪われ、本来の正体に視線を移そうとした時、視線を切ることができなくなった。そこで考えたことが二つの間の上下関係だった。それが視線を切ることができる合図となったのだ。
「これって本当に偶然なんだろうか?」
偶然だと思っていると、気は楽だった。だが、この経験をしばらく忘れることができず、気が付けば、意識の中にはなく、思い出すことはあった。
いつもふいに思い出すのだが、それが定期的なことであることに秋田は気づいていなかった。
そんな時にいつも一緒に思い出すのが、父の死だった。
「本当にお父さんは心臓麻痺だったんだろうか?」
いまさら考えてもどうなるものでもない。
父親が亡くなったことで、研究所からたくさんの見舞金が支払われた。不自由をすることもない。母親はそれでも、働いて働いたお金で秋田を養った。
「お母さんは偉いよな」
自分が研究員になったのは、父の意志を継いだというよりも、頑張って自分を育ててくれた母親への恩返しの想いもあった。
もちろん、研究することが好きなのは当たり前のことで、サラリーマンになって上司のいうことに服従したり、営業に出て、客にペコペコするような自分の姿を想像することなどできなかった。そういう意味でも研究員になったことは自分でも天職だと思っているし、健一といういい研究員の助手につけたことは、上司として尊敬できる人でもあり、この人についていけば、自分のスキルアップにも最適だったのだ。
そんな健一が虚空を見つめて黄昏れているような姿は初めて見た。時間的にはさほど長いものではなかったが、昔見た山から視線を切ることができなかった時のように、健一の顔を見て、焦点をどこに合わせていいのか分からないくらいだった。
――先生の言いたいことは分かるんだが――
健一の言いたいことは、父親が死んだのは、ただの心臓麻痺ではないと言いたかったのだろう。
父親が死んでから十年が経っているのだから、いまさら調べようもないが、一度湧いた疑念は、そう簡単に消えることはない。
秋田も、今までに何度も抱いた疑念だったが、
――疑念を抱いても、それを証明することができないんだから、どうしようもない――
と思い、すぐに考えることを止めた。
逃げていると感じたことはなかったが、最近、
――逃げていたんじゃないか?
と思うようになった。
ただ、自分も今、父親と同じ研究所で研究をしている。父親の死について考えることは、してはいけないことだと思えてならなかった。ここが秋田の真面目なところであり、無駄なことは言わない性格に裏打ちされているのだろう。
無駄なことを言わないという性格は、次第に無駄なことをしないということにも繋がってきた。
研究員の助手としては、実に忠実で、研究員にはこれほどありがたい助手はいないだろう。
自分の考えていることを忠実にそして正確に果たしてくれるのだ。これほどの人材はいないと思うことだろう。
健一も、秋田を見て、ずっとそう思ってきた。
「真面目過ぎるところもあるが」
と思いながらも、
「自分の思っていることを率先してやってくれるのは、彼の真面目な性格のゆえんなのかも知れないな」
と感じさせた。
虚空を眺めていた健一は、すぐに思い立ったように、
「僕の父親の失踪も、何か考え方を変える必要があるのかも知れないな」
と独り言ちた。
その言葉を聞いた秋田は、最初何を言っているのか分からなかったが、自分の父親の死についても、健一からの質問によって、今まで分からなかったことが分かってきた。まるで目からうろこが落ちたような感覚になったのと同じように、健一も自分でいろいろ聞きながら、自分の父親の失踪についていろいろ思うところがあったのであろう。
「僕の父は、タイムマシンに興味を持っていたようなんだけど、それ以外に研究しているものがあったんだ。それが何だったのか、父が失踪したために分からなくなった」
「どういうことなんですか?」
「父の失踪と同時に、父が研究していた資料のほとんどが消えていたんだ。もちろん、すべてではないが、肝心なものは何も残っていなかった。残ったものを分析すると、父がタイムマシンに興味を持っていたということと、何か他に研究していたということだけが分かったんだ」
「その研究については何も分からなかったんですか?」
「おそらくという前置きがつくが、医学関係だったんじゃないかって言われているんだ。もっとも父は医学の博士号を持っていたので、医学関係の研究をしていても不思議はないんだけど、失踪と同時にそのほとんどがなくなっているということは、何か医学だけではないところの研究もしていたんじゃないかっていう話もあったのも事実なんだ」
「でも、詳細に関しては何も分かっていないんでしょう?」
「ああ、そうなんだ。当時の同僚は父の研究の跡がどこかにないかっていろいろ調査していたみたいなんだけど、どこにも見当たらなかった」
「助手はどうなんですか? 助手の人なら何かを知っているんじゃないですか?」
「助手の人は、父が失踪する半年前に辞めているんだ。その後は父の助手はいなかった。辞めた助手にも調査は及んだんだけど、助手も知らないと言っていた。助手に黙って何かを研究していたのか、その時はまだ研究に入る前だったのか、それも分かっていない」
「助手が辞めたというのは?」
「女性の助手だったんだけど、結婚退職らしい。助手の方からの願いなので、父の意向は入っていない。だから、父の失踪には関係ないんじゃないかっていう話だったよ」
「そうなんですね。半年間、石狩博士は孤独に何かの研究をされていたということなんでしょうね」
「そういうことだ」
秋田は自分も助手なので、助手の立場になって教授を見てみることにした。
――もし、目の前にいる健一に自分がいなかったら?
と考えてみた。
今の健一は秋田のことを本当に信頼している。二人で研究することが当たり前のようになっているので、健一にしてみれば、秋田がいなくなるということは考えられないことなのだろう。
秋田自身もそのことを感じている。
――僕にはこの人だけが先生としてついていける人だと思う――
と感じていた。
もちろん、この研究所に来てから最初に助手としてついたのが健一だったので、他の人を知らないというのもあった。しかし健一には秋田が望む「理想の教授像」というものが備わっている。判断力、指導力、研究熱心さ、それでいて奢るところのない性格。
――この人なら、信じてついていける――
と思えた。
そんな健一が教授になるのを自分が支え、教授になってくれると、まるで自分のことのように喜ぶだろうと思っていた。
秋田は、元々人のために尽くすタイプの人間ではなかった。
研究員になるくらいなので、
――自分は人とは違うんだ――
という自信を持っていてしかるべきだと思う。
それくらいの気概がなければ、孤独な研究には耐えていけないだろう。