次元を架ける天秤
そのことを公表したことはないので、知っている人はいないだろう。だが、秋田助手にだけは、何となく分かっている。それも分かってきたのは最近のことであり、そのおかげで健一と秋田は会話が多くなったと言っても過言ではなかった。
秋田助手にとって、父親の死は、
「口にしてはいけないタブー」
だった。
しかし、なぜか健一と話をしていると、タブーと思っていることでも健一にだけは話せそうな気はしていた。無駄なことは口にしたくないという思いは、思ったよりも自分に重圧をかけていた。そのことを秋田自身も分かっているのだが、どうすることもできなかった。
なぜ自分の中で父親の死をタブーだと思ってきたのかというと、父親の死について一番疑問を抱いていたのが秋田だったからだ。秋田自身はなぜ疑問を抱いているのか分からなかった。真面目に抱いている疑問を、下手に中途半端な形で他の人に話すと、ただの話題の中の肴にされてしまいそうで嫌だった。
それでも誰かに話したいという意識は強く、一人で悶々としていた。相手がいくら健一であっても同じだった。相手が誰であれ、自分がしっかり話題の舵を取ることができなければ、結果は同じだと思ったのだ。
しかし、健一は自分と境遇が似ていた。
父親が同じ研究員であり、しかも、彼の父親は謎の失踪で、家族には青天の霹靂だっただろう。いきなり心臓麻痺で死んでしまったことで途方に暮れてしまった自分の家族の当時の心境と似ている。そんな人の助手でいるのは、秋田としてはありがたいことだった。
健一に対しては、研究員としても尊敬していた。
まだまだ研究員としてこれからの健一だったが、若さを考えれば、考え方や決断力には目を見張るものがあった。自分が数年後、健一と同じ年齢になった時に、果たして同じくらいのオーラを出せるかと言えば、自信がなかった。
――よほど、石狩教授という人がしっかりした人だったんだろうな――
と感じた。
父親と同じ研究員の道を目指す人も少なくない。中には研究員として未熟さが醸し出されている人もいる。そんな人を見ていると、
――父親はどうだったんだろう?
と勝手に想像してしまう。
逆に、研究員として尊敬できる人であれば、
――父親の遺伝によるものだ――
と考える方が圧倒的に強い。
もちろん、中には本人の努力によって父親を超えた人もいるだろうが、そんな人は稀だと思っていた。秋田自身、父親がどんな研究員だったのか知らないが、
――反面教師にしたのだから、少しは骨のある研究員であったと思わないとやりきれない――
と思うようになっていた。
子供を見て父親を想像するというのは、今に始まったことではなかった。子供の頃から子供を見て父親を想像するくせがついていた。自分の中では、想像した父親と変わりがないというイメージを持つことはできなかった。
だが、父親が心臓麻痺で突然の死を迎えてから、しばらくは子供を見て父親を想像するようなマネはしなくなっていた。それでも、父親の死から一年が経った頃から、また子供を見て父親を想像するようになっていた。父親の死へのほとぼりが冷めたという意識はなかったのだが、一年という月日が一つの節目だったのは間違いないことだろう。
その頃になると、今度は以前と打って変わって、子供を見ていて想像した父親が、イメージ通りの人であるという意識が強くなってきた。
――父親の死で何かが変わって、自分の中で何かのスイッチが入ったのかな?
と感じたほどだ。
しかも、時を同じくして、その頃から余計なことを口にすることはなくなっていった。
元々無口ではあったが、口を開くと、重要なことだけを話せばいいのに、ほとんどが無駄なことばかりだった。その意識があったからこそ、無口になっていたのだが、この頃から口を開く前から、何が重要で何が重要ではないかということが分かってきた。そのため、必要なことのみを口にするようになり、無駄なことを口にすることはなくなったのだ。
本人は、それでいいと思っていたが、まわりからすれば面白くない。一つの集団の中には、無駄なことを無駄と分かっていても、口にする人はいるものだ。まるでピエロのようだが、
「まわりが喜んでくれればそれでいい」
と、敢えて面白いと思うことを口にして、ピエロを甘んじて演じているのだ。
また今の秋田のように、無駄なことを一切口にしない。真面目を地で行っている人もいる。そんな人はまわりから見ればどう映っているだろう。
「面白くも何ともないやつだ」
ということで、なるべく触れないようにされているに違いない。
いつの時代も真面目なだけで面白くないやつとはかかわりになりたくないという意識を持たれるもののようである。
秋田助手は、虚空を見つめながら、とても重要なことをボソッと呟いた健一を見ながら、その心境を思い図ってみた。
――どうして、そんなに虚空を見つめるんだ?
そこに何があるというのだろう?
虚空というのは果てしないものだという意識があり、じっと見つめていると、そのうちに視線を逸らすことができなくなるような気がしてきた。
子供の頃に、何気なく遠くの山を見ていると、山に掛かっている雲が目に入ってきた。まったく動いているようには感じない雲だったが、じっと見ていると、ゆっくり動いているように思えてきた。
――雲を中心に見るべきか、山を中心に見るべきか――
と思いながら見つめていた。
最初は山しかなかったので、山が中心だったが、気が付けば雲がかかってきていた。あれよあれよという間に、雲が立ち込めてきた。その間は錯覚ではなく、本当にあっという間の出来事だった。
雲が一定の大きさになってくると、目の焦点は山から雲に移っていた。雲は大きくなるでもなく、動きを見せるでもなく、本当に、
「動かざること山のごとし」
という言葉通りだった。
雲を中心に見ていると、雲が動いているという感覚はまったくなかったが、じっと雲を見ていると、次第に遠近感がマヒしてくるのを感じた。山の上に雲がかかっているのに、雲が独立して、少しこちらに近いところに位置しているように思えてきたのだ。
山が近くに感じるようになったことで、動いていないはずだった雲がゆっくり移動しているのを感じた。
これはさっきの雲が立ち込めてきた時と違って、自分でも錯覚だと思えてきた。そう思うと、今度は視線を切ることができなくなっていたのだ。
「僕はどこを見ているんだろう?」
視線を切ることができなくなると、今まで雲を中心に見えていた視線が、いつの間にか山に移ってきているのを感じた。しかし、その前に視線を切ることができなくなってしまったのだ。
「まるで視線を山に移そうとするのを邪魔しているようだ」
そう思った瞬間、目の前の雲と山の上下関係のようなものがしっかりしているのを感じてきた。
「山が中心で、雲は山を盛り立てるために現れただけのようだ」
そう思うと、やっと視線を切ることができた。
我に返った秋田少年は、自分に何が起こったのか分からなかった。