同じ日を繰り返す人々
しかし、それが勘違いであることに一か月ほどして気が付いた。その期間が長いのか短いのか分からなかったが、最初はその一か月を長いと感じていたが、次第にあっという間だったように感じるようになっていた。
――俺は二重人格ではなく、躁鬱症だったんだ――
二重人格と躁鬱症の違いは、躁鬱症というものを考えた時、その違いに気が付いた。
躁状態と鬱状態は、それぞれ定期的に入れ替わっている。しかも、根本的な性格に変わりはない。ただ、感じ方が両極端なだけだ。
――何をしても、楽しくて仕方がない――
と感じる躁状態、それに比べて、
――何をしても、うまくいく気がしない。楽しくない――
そう感じるのが鬱状態。
オサムは、そのことに一か月ほどで気が付いた。それは、躁鬱が定期的に入れ替わる一クールに過ぎなかった。
たった、一クールで簡単に分かるはずのものではないはずなのに、それが分かったということは、一か月だと思っている二重人格という自分の性格に気が付くまでの期間、本当はもっと長かったのかも知れない。
最初に二重人格ではないかと思った時期が、自分の中で曖昧だったことを示している。それも、
――一つのことに集中すると、まわりが見えなくなる性格だから――
ということを片づけようとした。
考えてみれば、これほど曖昧で、言い訳に使える性格判断もないのかも知れない。そう思うと、自分の性格をあまりよく思えなくなってきた。
少なくとも、オサムは最近まで一つのことに集中する性格を悪いことだとは思っていなかった。確かにまわりが見えなくなるのはマイナス要素だが、一つのことに集中できるということは、それを補って余りある性格ではないかと思うのだった。
自分が躁鬱症だと思うようになったのは、実は信号機が鮮やかに見えるようになったからだ。この現象は中学時代にもあったことで、その時のオサムは、
――俺って躁鬱症なのかも知れない――
と感じたからだった。
その時は、確かに躁状態と鬱状態が交互にやってきて、躁鬱症の条件を満たしていたことで、本当に自分が躁鬱症だと感じていた。
しかし、躁鬱症は恒久的なもので、一度身についてしまうと、なかなか抜けないものだと思っていた。
もちろん、個人差はあるのだろうが、実際には恒久的なものではないようだった。そのことを知ったのも、大人になってからだった。
中学時代に感じた躁鬱症。躁状態と鬱状態が交互にやってきている時というのは、自分でも自覚していた。特に鬱状態から抜けて躁状態に変わる時、前兆が分かっていた。しかも、鬱状態から躁状態に抜けるまでには、通常の状態に戻ることはない。鬱からいきなり、躁状態になるのだった。
だが、躁鬱症に陥っている意識を持っている時でも、通常の状態になっていることを何度も自覚したことがあった。ということは通常の状態になる時というのは、
――躁状態から鬱状態になる時の間――
だということになる。
それは考えてみれば、まるで信号機のようではないか。
信号機も青から赤に移る時は、黄色というニュートラルな状態を経由している。しかし、赤から青に移る時には、黄色というニュートラルな状態を経由することはない。
つまりは、
――躁鬱症というのは、まるで信号機のようなものではないか――
と思えたのだ。
信号機のような躁鬱症の時に、無意識ながらも信号機の鮮やかさを意識するというのもおかしなものだ。だが、意識することが必然だと考えると、おかしいわけではない。そう考えると、
――世の中には、無意識の中にも意識することができるようになるものもあり、意識してしまうと、偶然が必然に変わるという感覚に陥るものなのかも知れない――
と思えてならなかった。
中学の時の躁鬱症は、いつの間にかなくなっていた。それまで、自分が躁鬱症であることをあれだけ意識していたのに、いつの間にかなくなってしまったことで、意識から自然に消えていた。
意識から自然に消えるのは、いつの間にかなくなっているというほど、自然でなければいけない。躁鬱症だったという意識だけは持っているのに、しかも、躁鬱症は恒久的なものだという考えを持っているのに、意識しなくなったことを不自然に感じることはなかったのだ。
それなのに、最近になってまた躁鬱症を意識するようになった。しかも、最初は自分のことを、
――二重人格なんじゃないか?
という勘違いのおまけまでつけて、意識したのである。
それは、躁鬱症だったという意識が戻ってきたというわけではなかった。
――躁鬱症が初めてではないような気がする――
という思いから記憶を遡って、やっと中学時代に戻ることができた。
それも、信号機の鮮やかさを見たという意識がなければ、戻ることができなかったものである。自分の中で躁鬱症という意識が燻っていたのか、それとも、意識があったわけではなく、記憶を引きづり出すことで思い出せたことなのか、その時はハッキリと分かったわけではなかった。
信号機を見ていると、今までの記憶がよみがえってくるのを感じた。中学時代、高校時代、ほとんどが点であって、線として繋がっているものではない。
十何年という歳月が順次思い出されていくのだから、線で繋がっているはずがないというのは当然のことであるが、それにしても今まで思い出したこともないようなことが、まるで走馬灯のように思い出されるというのは、あまり気持ちのいいものではなかった。
――死を間近にした人は、昔のことをいろいろ思い出してくるというが――
まさか、自分に死が近いなどということは、考えていなかった。
――そんなバカなことを考えるから、本当に死を迎えることになる――
と思ったからで、意識はしていても、考えないようにしていた。
意識してしまったことを無理に打ち消そうとすると、そこに無理が生じる。変に無理を生じさせることの方が、よほど意識を現実にしてしまうことに繋がるようで、恐ろしかった。
それは意識が現実になるわけではなく、むしろ、現実から遡って意識を正当化してしまおうというおかしな感覚があるからなのかも知れない。
オサムは、しばらくしてからツトムに出会った。それはまったくの偶然だった。だが、ツトムはそうは思っていない。
「俺が君と出会ったのは、必然なのさ。俺もそういえば、以前同じようなことを言われたことがあったっけ。君は、自分が同じ日を繰り返しているかも知れないということを、おぼろげながらに感じているだろう? その思いは間違いであって、間違いではないのさ」
何とも分かりにくい言い方だったが、その時のツトムの顔を見ていると、よく分からないことでも、整理して考えれば分かってくることのように思えていたから不思議だった。
「俺も、同じ日を繰り返しているということを教えてくれた人がいたんだ。その人がいたから、自分が同じ日を繰り返しているということを自覚できたんだ。でも、正確に言うと、その人に話しを聞いた時はまだ自分は同じ日を繰り返しているわけではなかったんだ。前兆があっただけで、意識してしまったことで、抜けられなくなってしまったと言った方が正解なのかも知れないな」
作品名:同じ日を繰り返す人々 作家名:森本晃次