同じ日を繰り返す人々
ただ、夢の世界が願望のかたまりであることに変わりはなく、潜在意識がどこまで願望を許容しているかということに繋がってくる。
オサムは願望を、欲と一緒に考えることをしなかった。
オサムにとって欲というものは、悪いものではなく、
――人間にとって必要不可欠な感情だ――
と思っていた。
願望も確かに必要不可欠に見えるが、
――願望というのは、叶えてしまえばそこで終わりだ――
という思いがあったのだ。
それに比べて欲というものには限りがない。もし叶えられる欲があったとしても、すぐに他の欲が顔を出す。要するに、願望に比べて欲というものは漠然としたものであり、曖昧でもあるのだ。
そういう意味で、必要不可欠な感情なのである。
潜在意識は現実世界の意識に比べて、幅が広いように感じるが、夢の世界が欲ではなく願望だと考えれば、限りなく狭い範囲に落ち着いてしまうだろう。
同じ日を繰り返しているのも夢の世界の一環のようなものだと思えば、必ずいつかは目が覚める。それが、必ず同じ日を繰り返している世界から抜けられるということへの確証でもあったのだ。
では、この世界をヨシオとツトムはどのように思っているのだろう?
ツトムがヨシオの実験台になっているというのは、ヨシオの話を聞いていて分かってきたことだったが、ツトムにとってヨシオはどういう立ち位置にいるのだろう。ツトムがみすみす、ヨシオの言いなりになっているというのは解せない気がする。ツトムとしても自分の書いた小説と同じ世界を創造していたのだ。それなりに考えがあったはずだ。
逆に言えば、それなりの考えがツトムにあったからこそ、ヨシオにとっての実験台として存在しえたのかも知れない。そう思うと、二人の目に見えない駆け引きがどのように行われているのか、興味深いところだった。
そういう意味でも、早く明日になって、ツトムと再会したいと思った。ツトムと再会することで、何か吹っ切れるものがあると感じたからだ。
オサムはツトムと再会し、吹っ切れたところで横溝に会うというシチュエーションを頭に抱いている。それは同じ日を繰り返している横溝なのか、それともこちらの世界に戻った横溝なのか考えていた。
――同じ日を繰り返している人は、一度は死を考えるものだ――
と思っていた。
それは自殺を意味しているが、普通であれば、切羽詰っていないと決行はできないだろう。確かに奇妙な世界に入りこみ、頭が錯乱しているのだから、自殺を考えても不思議ではないが、考えたとしても行動に移すだけの理由が見当たらない。しいて言えば、
――自殺をすることしか、この世界を抜けられない――
という思いが、その人を切羽詰らせるのかも知れない。
オサムは自殺を考えていた。
――この世界は自殺しようとしても、できるものではない――
というのは、本気で自殺をする人などいないということだ。自殺というよりも、この世界に一つの起爆剤を投入しようという意識であるが、危険極まりないことに変わりはない。
もし失敗したら、本当に死んでしまうかも知れない。成功したとして、その後、どうなるというのだろう? オサムの考えとしては、日にちが変わる寸前に戻って、そこから新しい日に飛ぶことができるという発想であったが、これもあまりにも自分に都合のいい発想だ。
ただ、オサムが考えているのは、
――死ぬことによって自分が発想している場所に届くかも知れない――
ということであり、何も考えのない人が死んでしまったら、どうなるのか、想像もつかなかった。
――一体、同じ日を繰り返している人というのは、何か見えない力に誘導されているとしても、その力は彼らに何をさせようというのだろう?
以前見た映画で、タイムスリップを題材にしたものがあったが、その映画のテーマというのが、
「歴史は俺たちに何をさせようというのか?」
というものだった。
タイムスリップ自体、歴史に対する挑戦である。しかも、映画のタイムスリップは一人だけではなく、そのあたりにいた人をすべて巻き込んだ、いわゆる局地的なタイムスリップで、個人の問題ではなかった。それだけに、考えは個人個人で違っている。
タイムスリップが起こった時に、爆風のようなモノが吹いたことで、火薬に火をつけて爆発させようとした人がいたが、それおまわりの人が必死に止めた。止めなければ間違いなく当たり一面木っ端みじんで、普通に考えれば生き残っている人は誰もいないからだ。
しかし、それも、
「歴史は俺たちに何をさせようというのか?」
というテーマがあるから言えることで、映画の中では、爆発は厳禁だという発想ではなく、テーマを実現させるためには爆発を起こして、どうなるかを見極めさせることはできない。もし、爆発させてどのような結果になるかというのはやはり、
「神のみぞ知る」
人間が神の領域に入り込んではいけないということなのかも知れない。
この場合の爆発させなかったことに対して、映画を見ていた人のほとんどが、ホッと胸を撫で下ろしたことだろう。
――爆発させて危険に晒されるよりも、もっと他に方法はないのだろうか?
という発想をほとんどの人が抱くに違いない。
もっとも、爆発させて、その後におびただしい数の死体が転がっているという情景を思い浮かべるだけでも恐ろしいのに、スクリーンいっぱいに見たいとは思わないだろう。
だが、それがたとえば戦国時代の映画で、戦場であれば、別にそこまでは感じない。何が違うというのだろう。
それは、戦国時代には戦というものがあり、そこでは殺し合いが行なわれ、終わった後には夥しい数の死体が転がっているということは頭の中で事実として理解しているからである。
――事実というものは、想像していて悲惨なものであっても、頭の中では認めるしかないということを知っているのだ――
と言えた。
しかし、タイムスリップを起こさせるために、火薬を爆発させるというのは、過去の事実にはないことだ。前例がないことはそれだけでも危険なのに、火薬を爆発させるということは、精神に異常をきたしていないとできることではない。それだけ切羽詰っているということなのだろう。
それは、同じ日を繰り返している人が自分で死を選ぼうとしているのと似ている。同じ日を繰り返すというのは、一種のタイムスリップで、それを抜けるには、前例のないことでも奇抜な発想に従うしかないという思いも、切羽詰っていればありえることだ。
しかも、自殺は他の人を巻き込むわけではない。止める人は誰もいないのだ。自分の意志でどこまでできるか、それが自殺を思い立った人の発想であろう。
しかし、本当に死ぬことができるかどうかというのは、疑問である。
オサムは、自分がその立場に立ったらどうするかを考えた。
――僕なら、死のうと思うかも知れない。死を思い止まるのは臆病で、逃げているように思う――
と感じたからだ。
作品名:同じ日を繰り返す人々 作家名:森本晃次