記憶が意識を操作する
かといって、自分の妻の涼子にも子供ができた。今、梨乃が懐妊し、不倫していたことが分かってしまうのは、まずいことだと思った。
――どうしたらいいんだろう?
考えがまとまらず、いたずらに時間だけが経ってしまっていた。最初、完全にどうしていいのか分からずの状態で中西に相談してきたであろう梨乃も、少し落ち着いてくると、もう中西にこの話をしなくなった。中西が涼子とゆかりを大事にしたいという気持ちがあるからか、梨乃の方も中西に近づけなくなっていた。
時間が経つにつれ、自分が冷静になってくるにつれ、梨乃は子供を堕胎する方に考えが傾いていた。最初は、
――意地でも子供を産む――
という思いに駆られていたが、それこそ、自分の意地であり、
――子供のためにはよくないことだ――
という考えはほとんどなかったのである。
そんな梨乃だったが、落ち着いてくると、
――このまま産んでも、この子は父親のいない子供として生きていかなければいけない――
ということを覚悟しなければいけなかった。そんな子供に対して、自分がどう接すればいいのか分からない。結局子供を産んでも、不幸にするだけなら、このまま生まれてこない方がいいに違いないと思うようになっていたのだ。
そこには、
――自分が子供の立場に立てば――
という考えが大きかったのは、自分でも分かっていた。そこが、中西にはないところだった。追いつめられると他人事のように考えてしまう彼のことは、前から分かっていたことだった。
梨乃は中西と話をしていた時のことを思い出していた。
「僕は子供の頃から絵を描くのが好きだったんだけど、海の絵を描いたことがあって、その時に感じたことなんだけど、海と空の間に窪みのようなものがあって、全体を見渡すと、海と空だけが世界を支配しているように思えたんだ」
梨乃は、中西が何を言いたいのか分からず、話を聞いているしかなかった。相槌を打つこともせずに、ただ中西の息遣いを感じながら、彼の次の言葉を待っていた。
「それでね。ずっとそこだけを見て描いていると、どちらが大きいのかって考えるようになったんだけど、そう思っている以上、どちらが大きいということは言えなくなったんだ」
「それで?」
「その時に、世の中って、すべてが何か二つあることに支配されているんじゃないかって感じたんだよ。対照的な何かがそれぞれ存在するから、世の中って成り立っているんじゃないかってね」
梨乃は、その話を聞いて、何となく分かったような気がした。
「そうね。確かに世の中には対照的なものが必ずあるわね。明と暗、善と悪、海と空というのもそうなのかも知れないわね。でも、『有』と『無』というのも対称って考えていいのかしら? 二つの勢力がまったくの中間に位置しているわけではないでしょう? たとえば数字で考えてみて、ゼロから百までを考えてみて、ゼロだけを一つの分類に考えて、一から百までを一つと考える人、また、百にならなければ、ゼロも九十九も同じだと思う人もいるでしょう? さらに真ん中で切って考えようとする人もいる。人それぞれなんだけど、どれが正しいと言いきれないところもあると思うのよね」
「数字のたとえでいうなら、僕はゼロか、それ以外で考えるかも知れない。もっとも、その考えの人が一番多いと思うんだけどね。二番目の百かそれ以外で考える人は、いわゆる『完全主義者』ということになるんでしょうね、僕には理解できないけど」
その話を聞いた時、梨乃は、中西が物事を考える時、
――どうして、彼が他人事のような客観的な目で見ることができるんだろう?
という疑問が少し分かったような気がした。
梨乃は、そこまで考えてくると、
――やはり子供は産まない方がいいんだ――
と考えるようになった。
確かに、自分のお腹の中にいる子供の父親が中西であることは、ほとんど考えられない。しかも、梨乃は他の男性と愛し合ったわけではない。子供ができること自体、ありえないことだった。
それなのに、子供ができてしまった。まるで「聖母マリア」のようではないか。
しかし、現実はそうはいかない。子供を産むか堕胎するかの二者選択でしかないのだ。
梨乃は中西に相談はしてみたが、返ってくる返事は分かっていた。自分の子供ではないことがハッキリしているのに、それを安易に認めるようなことを、誰がするというのだろうか。
あれから、中西は何も言ってこない。最初こそ、いつものように他人事のように感じていたのだろうが、今の中西は、彼なりに悩んでいるのではないかと思うようになった。
――彼に連絡を取ろうかしら?
と何度考えたことだろう。だが、それを何とか思いとどまった。そうこうしているうちに、梨乃は自分の気持ちがスーッと落ち着いてくるのを感じた。
――この調子で精神状態が落ち着いてくれば、私の中だけで何とか結論を見つけられそうな気がするわ――
と感じた。
結論を自分の中で見出せないのは、まわりのことをまず先に考えてしまうからではないかと、梨乃は感じるようになっていった。
――これが彼と私の一番の違いなんだわ――
と梨乃は感じた。
中西は、当事者になって追いつめられると、他人事のように客観的にモノを見る性格だった。そのことを本人はもちろん、梨乃にも分かっていた。きっと涼子にも分かっていることだろうと思う。
中西に近いところにいない人は、彼に対してまさかそんな性格だなどということを悟る人はいないだろう。だから、彼は見る人によって、性格の感じ方が違うのだ。
そこには、境界線のようなものがある。中西には、どこか自分の中で決めている境界線のようなものがあって、その上で、まわりの人が踊らされているのではないかと思えるところがあった。
中西という男性を見ていて、梨乃は、
――どうして自分が最初に彼に惹かれたのか分からない――
と思っていた。
別にパッとしたような他の人にはない魅力が感じられたわけではない。
――いつの間にか気が付けば彼に惹かれていた――
というのが本音であった。
だが、そんな恋愛もいいものだと梨乃は思っている。別に交際相手が自分の理想の男性でなければいけないという確固とした思いがあるわけではない。
――その時好きになった人が、私の理想の人なんだ――
と感じていたからだ。
そのことを他の人に話すと、
「理想の人がいないということは、結局誰でもいいっていうことないの?」
と言われたことがあり、ハッとさせられた。
「確かに理想のタイプがいないというわけではないが、実際に付き合う人は、理想の人ではないことが多いわ」
というと、
「それは誰でも同じ。私も実際にそうなんだけど、でも、理想のタイプというのは、自分の中にしっかり持っているものなのよ」
といっていた。
彼女の言うことは間違ってはいない。確かにその通りなのだ。だが、梨乃にはなぜか理想の男性を思い浮かべることはできなかった。
――理想の人だと思える人が現れて。初めてそこで気付くというのではいけないのかしら?
と感じていた。
今までに何人かの男性と付き合ってきたが、そのすべてが相手から交際を申し込まれた時、
――断る理由が見つからないから――
作品名:記憶が意識を操作する 作家名:森本晃次