記憶が意識を操作する
思い出す子供の頃というのは、大体がみのりや木村さんのことである。特に、みのりのことは、真正面から見ているという意識があるのに、木村さんに関しては、後ろから見ている感覚である。
最初は、どうしてそんな感覚になるのか分からなかった。しかも、そんな感覚になるように、一体いつ頃からなったのかということも分からなかった。気が付けば木村さんに対する意識に微妙な変化が起こっていたようだったのだが、それも次第にいろいろ考えているうちに、
――最初から、木村さんに対しては特別な意識で見ていたのだ――
ということに気付いていなかっただけなのだ。
子供の頃、父親に対して嫌な思いしかなかった中西にとって、木村さんは、
――理想の父親――
だったのかも知れない。
木村さんを見ていると、
――余計なことは言わないが、言わなければいけないことはキチンという――
そんな父親だったように思う。
それは中西自身が、
――自分が父親になった時、こんな父親になりたい――
というイメージを膨らませていた時、大いに参考になった考えだった。
自分が父親になった時などというイメージは、大学三年生の頃から現実味を帯びてきた感覚なので、それまでは、木村さん以外に、自分の理想の父親としてイメージできる人が一人もいなかったということを示しているに違いない。
だが、実際に子供が生まれてみると、それまで感じていた木村さんのイメージが次第に薄れていくのを感じた。
――赤ん坊の匂いのせいなのかな?
木村さんと、赤ん坊の匂いのイメージがあまりにもかけ離れていて、しかも、赤ん坊の匂いが気持ち悪く感じられる時点から、木村さんのイメージが薄れてきたのではないかと思うようになっていた。
だが、木村さんに感じていた父親のイメージは、自分に子供ができて深まっていったのは事実である。
木村さんを見ていると、不思議に思っていたことがあったのだが、何が不思議なのかその時には分からなかった。違和感を感じるのだが、どこから来る違和感なのかが分からなかったのだ。
今ならハッキリと分かる気がする。
――木村さんは、いつもみのりの世話をしているので、自分の家族はいないものだと思っていたが、みのりに対しての態度は、どうにも他人のようには思えない。少なくとも自分に子供がいなければできないような態度を示していたようだった――
と感じた。
それは、自分が結婚して初めて分かったことだった。
だが、なぜ結婚しないと分からなかったのかということを、今度は子供が生まれてやっと分かったような気がする。
正直、子供が生まれるまでは、中西自身、
――子供はあまり好きじゃないな――
と思っていた。
涼子との間にすぐに子供を作ろうと思わなかったのは、
「新婚気分を味わっていたいから」
という理由があったのも事実だが、それよりも、子供自体を好きになる自信がなかったというのが、真実だった。
真実と事実とでは、得てして状況によって、結果が違ってくるものである。
事実は、状況によって変わってくるが、真実は変わりようがないだろう。しかし、真実というものは、人それぞれで違っているものでもある。したがって、
――状況によって、人それぞれの真実が絡み合うことで生まれた結果が、事実となって現れる――
というのが、真実と事実との関係なのではないだろうか。
子供をほしくないわけではないが、絶対にほしいというわけでもない。そんな中途半端な気持ちを涼子は分かっていたのだろうか? 中西が子供をほしがっていないことに疑問を持っているわけでもなさそうだったし、子供をほしがらないことに対して、責めるわけでもなければ、自分の気持ちを抑えているわけでもなかった。
――涼子も、さほど子供がほしいというわけでもなかったのかも知れない――
だが、男性と女性の一番の違いは、子供を実際に生むのは女性であり、
「自分のお腹を痛めて生んだ」
それが、自分の子供なのである。母性本能が芽生えないはずはない。涼子もまさしく子供が生まれてから変わったタイプで、
――大切に育てよう――
という気持ちを、中西は涼子を見ていて感じるのだった。
中西は、涼子がどんな子供時代を過ごしていたのかを知らない。涼子自身が話すこともなければ、中西が聞くこともなかった。少しでも涼子自身から話をしてくれようという意志があれば、中西もいろいろ聞きたいこともある。だが、実際に話をしてくれたとして、本当に聞きたいことを聞き出せるのかということは、中西自身、少し不安だった。
だが、子供ができたことで、涼子も自分の子供の頃の話をしてくれるようになった。
「私の子供時代は、最初は、結構明るかったかも知れないわ。でも、途中から人と話さなくなり、そのまま暗い時代を過ごしていた気がするわ」
「それはどうしてなんだい?」
「元々、私は自分から友達を作ろうとしなくても、友達ができる方だったので、友達を作る努力をしなかった方なの。友達ができると、結構お話にもついていけるので、友達が離れて行くということもなく、でも、自分が中心になるということもしなかったので、輪の中心にいるということはなかったわ。だから、友達が減ることはなかったのかも知れないわね」
そこで、一拍置いて、さらに涼子は話し始めた。
「でも、ある日友達の家に行って、ケーキを出してもらったの。それまでの私は好き嫌いのない方だったので、ケーキを出してもらった時は本当に嬉しかった。おいしそうに『いただきます』と言って食べ始めたのはよかったんだけど、急に気分が悪くなって、そのまま気絶してしまったのね。その時に食べたものを戻したようで、自分では覚えていないのに、そのせいで、それからは、まるで汚いものでも見るような目で見られるようになったの」
「本当に子供というのはむごいものだよね。まわりに罪はないのかも知れないけど、それだけに余計にまわりの目が忌々しく思えてくるというものだ」
というと、
「罪がないという言葉こそ、罪なのかも知れないですね。本当に罪のないことなんて、そんなにたくさんはないような気がするの」
涼子は寂しそうな表情になった。
今まで、人に対しては優しく、自分に対しては厳しいという、どちらかというと、「聖人君子」のように見えていた涼子だけに、彼女の言葉や表情が俄かには信じられない様子だった。
こんな涼子を見るのは初めてだったが、逆にホッとした気分にもなった。それは、その時の自分が、精神的に落ち着いている証拠でもあった。もし、少しでも落ち着かない状態だったら、涼子に対しての疑念が次第に膨らんでいき、
――何を信じていいのか分からない――
という心境になったに違いない。
涼子という女性が、
――実は、子供の頃に暗い過去を背負っていたのだ――
ということを知った時、もっと涼子の過去について、いろいろ知りたいと思うようになっていた。
ただ涼子がその時、嘔吐を催した原因について、自分でもよく分からないと言っていたが、果たしてそうなのだろうか?
子供の頃は分からなかったかも知れないが、途中どこかで絶対に分かるはずの場所を通り抜けているはずである。
作品名:記憶が意識を操作する 作家名:森本晃次