記憶が意識を操作する
――信じられない――
という思いから、しばらくそこから立ち去ることができなかった。
本心からすれば、そんな異様な場所から、
――一刻も早く離れたい――
という心境があった。
しかし、その場を離れてしまったら、自分の合格が消えてしまいそうな気がしていた。自分の目で、合格が確定しているのを確認したはずなのに、自分の目さえ信じられないのだ。
それまでの中西は、
「自分で見て、触ったりしたものでないと信じない」
と嘯いていた。
――人の噂などを軽々しく信用しない――
という意味からの心境なのだが、受験の時は、自分すら信用できなかった。
他人の目であれば信用できるというわけではないが、少なくともその場を離れる度胸は、その時の中西にはなかったのだ。
中西は受験の時の合格発表が今までで一番緊張する瞬間だった。それは間違いのないことだが、それ以外にも同じような心境になったのを覚えていた。
覚えていたと言っても感覚的なものであって。それがいつだったのかは、正確に思い出すことができない。
ただ、その時の心境は、合格発表の時というよりも、むしろ、今回の出産の時に、感覚的には近い。
――あの時のことを覚えていないのだから、今回の出産の時に感じた思いも、後になってから思い出そうとすれば、思い出すことはできないかも知れない――
と感じた。
その思いは、半分当たっていて、半分が違っていた。そのことを感じるのはもっと未来になってからのことだった。
ただ、その未来というのも、
――近い将来――
という意味だった。
――そんなに未来が遠く感じられない――
と思うようになったのも、この時からで、分娩室の扉が開いた時、気持ち悪く感じたのは事実だった。
――血の匂いだ――
その思いがその時の記憶のほとんどを占めていた。
――今までの嫌だったというシチュエーションではなく、何となく嫌な気分が残っていることがあったが、本当は血の匂いを嗅いでしまったからに違いない――
ということに気がついた。
すぐに落ち着いて、分娩室の扉を開けて、中に入った。
涼子は、中西の顔を見た時、ニッコリと微笑んだ、
――大義を全うした――
という満足感が溢れているのだろう。
その表情を見た中西は、涼子がまるで他人のように思えてしまったことにビックリした。
――どんどん遠ざかっていくような気がする――
まったくの錯覚のはずなのに、なぜそんな気持ちになったのか、自分でも分からない。
さっき聞こえた赤ん坊の声もすでになかった。眠ってしまったのかと思ったが、母親の枕元で蠢いていた。
生まれたての赤ん坊は、まだ人間の顔になっていないのか、しわくちゃな表情だ。しかも、顔色は真っ青なのに、ところどころ赤みを帯びているのを見ると、さっき感じた血の匂いが、またよみがえってきそうだった。
さすがに今度は、吐き気を催すことはなかった。
――分娩室という特別な環境の中で血の匂いがしてくるのは無理のないことだ――
という意識が、そうさせるのかも知れない。
涼子は、中西に対して微笑みかけると、ドッと疲れが出たのだろう。そのまま眠ってしまった。
「奥様を病室までお連れしますね」
看護婦さんは、そういうと、病室まで涼子を運んでくれた。
赤ん坊はそのまま乳児室に運ばれ、病院側でしっかり管理してもらえる。中西にとっては、ただ、オタオタするだけだった。
この時のことを、中西はずっと忘れなかった。印象深い数日間、オタオタしながらなのに、ずっとウキウキした気分が暖かい気持ちにさせてくれる。
しかも、その時感じたウキウキには二種類あった。
本当に自分のこととしてウキウキしている気分、そしてもう一つは、他人事のように客観的に見ているくせに、ウキウキする気持ちは自分のこととして感じている時の二種類だ。同じ感覚のようで、どこかが違っている。それは、客観的に見ている時に、イメージする自分の子供が成長した姿を思い浮かべることができたことだ。成長した娘は、みのりにそっくりであり、次第に涼子に似てくる。
――涼子と結婚できて、本当によかった――
と、中西は、子供が生まれたことで、余計に涼子との結婚が幸せであることに気が付いたのだ。
生まれてきた娘に、最初に考えていたとおりの「ゆかり」という名前を付けた。漢字にすることはなく、すべて平仮名である。
「どうして平仮名に?」
と、涼子から聞かれたが、
「具体的な理由はないけど、自分に娘ができた時に名前をつけるとすれば、平仮名の名前だって決めていたんだ」
涼子も、平仮名の名前に賛成してくれた。だからこそ、ゆかりという名前を思い浮かべたに違いない。お互いに気持ちが一致していたことを、名前を考えた時に喜び合ったものだ。
涼子がゆかりを連れて帰ってきたのが、ゆかりが生まれて五日後のことだった。産後のひだちも順調だったこともあり、母子ともに健康で戻ってきた。
涼子は、出産を期に、それまで勤めていた会社を退職していた。そのおかげなのか、入院前に、家でのすべての準備が整った上での入院になったので、中西が家のことをいろいろしなければいけないようにはなっていなかった。それは実にありがたかった。
「しばらく、ゆっくりしていればいいよ」
と言って、中西は妻をねぎらった。
「ええ、ありがとう」
中西は、妻をねぎらいながら、時々子供の顔を見るのが楽しみだった。本当はずっと見ていたいのだが、なぜかそれはしなかった。時間に対しての自分の感覚が狂ってしまうことを恐れていたのかも知れない。
一年経っても二年経っても、この時の記憶は結構鮮明に覚えている。同じ時期のことでも、そのほとんどを忘れているのに、家にいて、妻と子供と三人の生活だけは、色褪せることなく覚えているのだ。
そのくせ、記憶は遠い昔のような気がしている。一年や二年前だという意識がなかったのだ。
自分が子供の頃のことを思い出すのは、今に始まったことではなく、大学生の頃から増え始め、気が付けば気にしていることなど、今までに何度もあった。
夢に出てきたこともあっただろう。だが、夢というものは得てして、
――目が覚めるにしたがって忘れていくもの――
という意識通り、
――夢に見た――
という意識はあるのだが、どんな夢だったのかということになると、すっかり忘れていることが多い。忘れてしまったのか、覚えようという意識が強すぎて、覚えられなかったのか、どちらにしても、子供の頃の記憶を覚えているということに間違いはないようだ。
涼子が家に帰ってきてから、中西は腰痛や眩暈を起こすことがしばしばあった。座っていればだいぶ楽なのだが、立ったり動いたりすると、腰が痛くなり、眩暈を起こすような状況だった。
そんな時、妙に鼻の利きがよくなっているようで、いろいろな臭いを感じることができた。
鼻が利いてくると、部屋の中に充満している赤ん坊の匂いが気持ち悪さを運んでくる。赤ん坊は好きなのに、匂いだけは耐えられないと思う自分に対し若干の違和感を感じていると、中西はまたしても、子供の頃を思い出していた。
作品名:記憶が意識を操作する 作家名:森本晃次