記憶が意識を操作する
つまりは、人との間での距離を測っていることと同じではないか。絵を描いている時は、まず自分を主観的に置くことはない。必ずと言っていいほど、自分を客観的に置いて描いている。それは最初から感じていたことではなく、気が付けば、自分から距離を取って見ていたのだ。
「そうじゃないと、全体を見ることができない」
絵を描く時のことについて大学時代同じサークルの友人と話をした時、自分が答えたことだった。この時にどんな会話からこんな話になったのかということ、この答えについて、相手がどんな反応をしたのかということも、ほとんど覚えていない。だが、間違いなく、この回答をしたのだ。このことだけを覚えておくために、他のことは記憶から消えてしまったのだろうか?
自分が絵を描く時、
「大胆に省略することがあるんだ」
と答えているが、それは、
――消してはいけないことがあるから、覚えておかないといけないことだけをハッキリさせるために、敢えて、大胆な省略を必要とするんだ――
と、自分に言い聞かせ、納得させてきたのだと、考えるようになっていた。
その考えはおぼろげなものだったが、ハッキリしたものではなかった。その思いがハッキリしてきたのは、妻の出産、つまりは、ゆかりがこの世に生を受けた時だというのは、ただの偶然ではないだろう。
いや、偶然などということはありえない。それを一番よく分かっているのは中西本人のはずだ。
ただ、中西はその時まで大きなことを忘れていた。
それは、
――自分自身のことを客観的に見ることができるかどうか――
ということだった。
自分のことを客観的に見るということができていなかったなど、それまで感じたこともなかった。
――自分のことを客観的に見ることができるように思っていたのは、実は自分を取り巻く環境を客観的に見ることができていた――
というだけのことだったのだ。
中西は、
――これから生を受けるのが自分の子供である――
ということは重々分かっていることのはずなのに、どうしてもピンと来ない。それが自分を他人事のような客観的な目にしてしまうからなのかも知れないが、どうしてピンと来ないのか、一生懸命に考えていた。
――他の人はどうなんだろう?
という思いは、その時浮かんでこなかった。あくまでも、
――この考えを抱いているのは、自分に対してだけのことなんだ――
と考えていたからだ。
ではなぜ、その時だけ自分以外の人を思い浮かべなかったのだろう?
中西は、ここぞという時は、他の人のことを意識しないような性格だった。裏を返せば、他の人のことを考えている時というのは、ここぞという場面ではない時だということになる。
そういう意味では、出産という「大イベント」、まさしくここぞという場面ではないだろうか。
中西がその時感じたのは、
――俺には、自分自身のことを客観的に見ることができないんだ――
ということだった。自分のことを客観的に見ることができなくても、自分を取り巻く環境を客観的に見るだけでも、同じような効果があると思っていた。
――だが、本当に自分を客観的に見ることができると、どうなってしまうのだろう?
と思うと、少し恐ろしい気がしていた。
まわりのことを客観的に見ることができているのに、実際に自分自身を客観的に見ることができない。それは、その間に何か大きな壁が立ちはだかっているのではないかと感じるからだった。
そこまで考えていると、
――次第にその後が堂々巡りを繰り返してくるのではないか?
と感じるようになっていた。つまりは、考えられるところまでは考えてしまったということである。
そう思っていると、分娩室からかすかながら、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。それを本当に他人事のように聞いていた中西は、その時、その瞬間だけ、自分を本当に他人事として見ることができたことに気付いていなかった。自分を他人事として感じることができるとすれば、それは一瞬であり、しかも、本人の自覚のないところで、風のように通り過ぎてしまっている。ただ中西がそのことを自覚する時がやってくることになるのだが、かなり後になってからのことであり、中西にとって、再度のイベントの時だということを、その時の中西が知るはずもなかった……。
赤ん坊の声が急に大きくなったのを感じた時、中西は我に返った。そこには、分娩室から飛び出してきた看護婦さんが興奮気味に立っていて、
「お生まれになりましたよ。母子ともに健康です。とても元気な女のお子さんです」
その子が女の子であることは最初から分かっていたのだが、実際に生まれたということを他の人から言われた時、心臓がドキドキするのを感じた。
普段なら、自分が見たり触ったりしないと信じないくせに、その時だけは、人から言われたことが大きな救いになったのだということを中西は感じていた。
――後は自分で確認するだけだ――
本当に大切なことは、自分だけの確認では安心できないということを、その時中西は初めて知ったような気がする。受験の時の合格発表も、
――他人の目など、信じられるものではない――
と感じていたはずなのに、どうして子供のことになると、他人の言葉を素直に信じることができるんだろうと思うのは、本当に自分でも不思議なことである。
「中西さん。しっかりしてください」
と、看護婦さんが、自分を見てそう言った。
「えっ?」
「顔色が悪いように見えましたので」
と言われたが、まったくそんな自覚はない。
「いえ、大丈夫ですよ」
「それならいいんですが」
と、看護婦は言った。
その時、確かに嬉しくて、少し気を失うほどだったと思っているが、顔色が悪かったというのは、解せない気がした。興奮気味だったので、顔が真っ赤だったというのであれば分かる。気を失いそうになりながらでも、耳たぶが熱くなってきているのが分かったからだ。
ただ、考えてみれば、今まで中西は、何かあった時、自分の思いに反して、まわりから、
「顔色が悪いぞ」
として聞かされたことが、何度かあった。
特に思い出すのは受験の時だった。
合格発表を見に行った時だが、最初、家を出る時には、ある程度の覚悟を持って家を出た。それこそ、他人事のような客観的な感覚でである。そうでもしなければ、精神的に参ってしまっていて、自分で自分の合格発表すら見に行くことができなかったに違いない。
それでも、さすがに学校に着いて、掲示板の前に立てば足が震えてしまっていた。それは掲示板にある自分の受験番号を探すという作業の前に、目の前にできた人だかりに圧倒されたということもある。端の方で胴上げしている姿。うな垂れて、今にも自殺でもするのではないかと思えるような、そんな両極端な姿を見せられたら、
――まるで死刑台に昇る心境だな――
と思わずにはいられなかった。
もちろん、そんな思いは頭の中にこびりついて残っているもので、高校入試の時に最初に感じた思いを、大学の時は、まるで翌日にフラッシュバックされたような、実に生々しさがデジャブのように襲い掛かってきた。
――あの時はさすがに顔色は悪かっただろうな――
と思い、その後の合格を確信した時でも、
作品名:記憶が意識を操作する 作家名:森本晃次