記憶が意識を操作する
もし他の女性が相手なら、そんな風には思わなかっただろう。自分の気持ちを押し殺してでも嫌われたくないという思いに至るというのは、それだけ、
――自分を一歩下がった場所から見ることができる――
と感じた。
つまり、もう一人の自分が、客観的に自分を見ることができるからだ。
自分を客観的に見ることができたと最初に感じたのは、みのりの屋敷に遊びに行っていた時だった。まるで毎日が夢のような楽しい時間だった。それは今から思えば、浦島太郎が連れていかれた竜宮城のようではないか。しかし、みのりから玉手箱を持たされたわけではない。玉手箱はみのりが持っていたわけではない。ひょっとすると、中西が持っていて、覚えていないだけで、こちらからみのりに渡したのかも知れないと思った。だからこそ、みのりも木村さんも自分の前から姿を消したのだと思ったのだ。
だが、話しでは、みのりは不治の病だったという。どこまで信憑性があるかは分からないが、事実としてみのりも木村さんも、忽然と中西少年の前から姿を消したのだ。そこに何の前触れもなかった。本当に存在したのかということすら、しばし茫然とした頭では理解できなかったくらいだ。
――一体、あの時の僕はどうしていたんだろうな?
そんなことを感じていたが、その思いがまるで昨日のことのように思い出されると、それからの自分の人生を思い返すことは比較的難しいことではなかった。考えてみれば、中西少年はみのりのことも木村さんのことも何も知らない。いや、知りたいとは思ったが、実際に一緒にいる時は、知りたいとは思わなかったのだ。それは知りたいと思うことに恐怖を感じていたからで、
――知らぬが仏というけど、本当なんだな――
という思いを抱かせたのだった。
中西は涼子と結婚することに戸惑いがあったわけではない。少し怖いと思った時期もあったが、それは相手が涼子だからだというわけではなかった。相手が誰であれ、結婚することに躊躇があった。そう思い、自分を納得させていた。
しかし、実際には相手が涼子だから戸惑いがあったような気がする。
涼子に対して感じているのは、
――自分に対して従順だ――
ということである。
従順だということは、これほど男にとって嬉しいことはなく、男冥利に尽きると思っていた。だが、従順であることに自分がすぐに飽きてしまうなど考えたこともなかったが、飽きてしまうと、これほどつまらないものはないと考える時期もあった。
しかし、結婚してからの二年間は、今までの人生の中で、本当に最高の期間だった。それは紛れもない事実で、
「結婚してよかった」
と感じさせた。
それは涼子も同じだったようで、
「新婚気分が、ずっと続けばいいのにな」
というと、
「ええ、そうね。私も同じことを考えているわ」
と答えた。
その時に考えていたことが、同じ言葉でも二人が同じ気持ちだったのかどうか分からない。後になって考えれば、
――新婚気分なんて、まるで夢のようだったな――
と思うからだった。
ただ、お互いに疑念を感じていた時期もあったが、それも長くは続かなかった。
「その時にどうして離婚しなかったのか」
と誰かに聞かれたとしても、
「やっぱり、一緒にいる運命なのかも知れないな」
と答えるかも知れない。
二人が三十歳になる頃には、お互いに子供がほしいという意識もハッキリしていて、
「子供もいいな」
と中西が言えば、
「ええ、私もそろそろあなたが欲しいと言ってくれると思ったわ」
お互いに相手の気持ちが分かるのか、何かをしたいと思うのが、同じ時期に重なってしまうことが結構あった。
――やはり、一緒にいるのが一番自然だと思えるからだろうな――
と、中西は感じていたが、涼子も同じ思いだったようだ。
二人の間にそれから半年が経って、子供ができたことが分かった。
「三か月に入ってますね」
産婦人科の話に涼子も中西も笑顔で向き合った。お互いに、
――これほど相手が幸せそうな顔をするのを見たのは初めてだ――
と感じたに違いない。お互いの笑顔には、相手の笑顔に対する満足感が含まれていたのも事実だったのだ。特にこの思いは中西の方に強かった。そして、子供ができたと聞いた瞬間から、
「絶対に女の子だ」
と、信じて疑わなかった。
その時の二人は、本当に素直な気持ちだった。祈りはきっと神様に通じるに違いない。
生まれた子供は、ゆかりと名付けられた。
「すべて平仮名の名前がいい」
と、最初に主張したのは、中西だった。涼子もそれには依存なく、名前を決めたのは涼子だった。
「これなら不公平はないからね」
という言葉に、涼子も満足だった。
――もし涼子が名前を決める時に、みのりという名前を選んでいたら、どうだっただろう?
少し考えてしまった中西だった。
中西が、子供の名前を平仮名にしようとこだわったのは、みのりのことが頭にあったからだ。もちろん、平仮名の名前の中にはたくさんの名前があるので、まさか涼子が「みのり」を選ぶとは思えなかったが、涼子が名前を決めてくるまでは、それなりにドキドキした。
「ゆかりにしましょう」
と、涼子に言われた時、ホッとしたのも事実だったが、どこか寂しい思いもあった。その思いは、複雑な心境というよりも、心の中にある渦巻のようなものを呼び起こしたような気がして、
――涼子に気付かれていないかな?
という思いもあったが、別に気付かれたとしても、それが何か二人の間に亀裂を生じさせるものでもないのだから、気にする必要もないだろう。中西は、いよいよという時、前の日からそわそわして仕事にもならなかった。それは、
――自分が親になるんだ――
という意識よりも、もっと客観的なもので、まるで、
――これからお祭りが始まるんだ――
という程度の感覚でしかなかった。
そろそろ予定日が近づいてきたという意識があったが、ほとんど心の準備もなかった時の定期検診で、
「そろそろ近いということで、これから入院することになったわ」
と、涼子から言われて、思わず取り乱したような様子を涼子の前で見せてしまったのだろう。
「いやねえ、入院したからと言って、すぐに生まれるわけじゃないわ。そんなに緊張しなくてもいいのよ」
と、言われて中西はふいに我に返った。
「そうだよね」
と、ホッと胸を撫で下ろしたが、もうその瞬間から、中西は目の前で起こっている出産が、
――まるで他人事――
に感じられてきたのだ。
――自分が慌てても仕方がないんだ。それにしても、ドラマなどで見る夫の立場の人は、どうしてあんなに両極端なんだろう?
本当に慌てている男性は、まるで出産が自分のことのように落ち着かない様子で、それを宥める看護婦さんも、
――しょうがないわね――
という表情で見つめている。
いよいよになると、分娩室の前で右往左往の様子。じっくり見せられると、ウンザリしてしまうような光景も、ところどころで見せるから微笑ましく見える。そんな思いがあった。
しかし、本当に落ち着いている男性は、テレビなどにはあまり出てくることはないが、憎らしいくらいに落ち着いている。
作品名:記憶が意識を操作する 作家名:森本晃次