記憶が意識を操作する
中西は、一度木村さんを探してみようと思ったことがあった。屋敷に結構長い間住んでいたのだから、消息を掴むことはさほど難しいわけではないと思ったからだ。
しかも、当時はプライバシーの尊重は重要だったが、それ以降の時代ほど、個人情報に関して厳しいことはなかった。
ただ、情報を得るには、ほとんど材料がないのも事実だった。個人情報が叫ばれたのは、急速なメディアの発展がモラルについてこれなかったからであり、メディアの発展前であれば、人の情報を探すというのは、想像していたよりも相当に難しいことだということをすぐに思い知らされた。
中西は、木村さんを探していた時のことを思い出していた。
――まるで暖簾に腕押しのような感じだったな――
それは、最初から分かっていたことをダメだと思いながらも無理に押し通したことを示していた。反応がないのを分かっていながら、押し通せば、当然暖簾に腕押し状態になることくらい想像がつくというものだ。
木村さんとみのりが忽然と消えてしまったあの時、それから自分の人生が少しずつ変わっていったことに、中西は気付いていたような気がしていた……。
第二章 出産
中西が、涼子と結婚したのは、二人が二十五歳の時だった。
「私、二十五歳になるまでに結婚しなければ、そのまま一人なのかも知れないわ」
と、涼子は言った。
その表情には寂しさはなかった。むしろサバサバした表情で、
――こんなことを口にする場合、寂しさを感じさせる中での表情か、あるいは、この時の涼子のようにサバサバした表情以外にはありえないような気がするな――
と感じていた。
涼子の方でも、結婚するなら、相手は中西しかいないと思っていた。他の男性と付き合ったことがなかったわけではない。二人がしばらく離れていた時、付き合っていたかどうか微妙な関係だと思っていたが、
――きっとまわりから見れば、付き合っていたように見えるに違いない――
と思わせるようなお付き合いだったと思っている。
だが、心の中までその人に許すことはなかった。それが相手に疑問を抱かせ、
「君とこれ以上一緒にいることはできない」
というセリフを相手に吐かせて、そのまま別れてしまったのだ。
最初はさすがに茫然としていたが、
――自分から言わせたんだ――
と感じることで、涼子は、自分の行動に根拠があったことを自覚した。
その時、頭の中には中西がいたのは間違いない。そして、この時初めて、
――私は中西さんが本当に好きなんだ――
と感じた。
今さらではあったが、中西に対して好きだと感じたのは、これで何度目だっただろう。一度感じては、次第に気持ちが薄れていって、またしばらくすると、再度感じての繰り返しだったはずなのに、気持ちの上では、
――初めて感じた――
と思ったのはなぜだろう。
――今度こそ――
という思いがあったのだろうか。もしそうだとするならば、涼子にとって中西は、いつまでも、
――捉えどころのない男性――
だったに違いない。
だが、その思いがあるからこそ、中西に対して、自分の中で忘れられないところがあることに気付かされるのだ。捉えどころがないというのは、決して相手のことを分からないというわけではない。むしろ分かりすぎるくらい分かっているから、
――今の自分なら捉えられない――
と思うのだ。だから何度も中西に対して、好きだという感覚が生まれるのであって、その感覚がすべて一緒だというわけではない。それだけ、気持ちの中で中西への想いが成長している証拠だったに違いない。
中西が涼子のことをどのように思っているかというのが、涼子にはどうしても掴めなかった。知り合ってから結婚まで、結構長かったのは踏ん切りが付かなかったというのも事実だろう。
しかし、裏を返すと、
――長すぎた春――
であるにも関わらず、お互い本当に離れることがなかったのは、やはり二人に運命があったのだということを分かっていたからに違いない。
涼子は、中西に対して従順な気持ちになっていた。元々相手に尽くすのが涼子の性格だったからである。
中西はといえば、尽くされることで、かなり有頂天になっていたのは事実だった。尽くしてくれる涼子に対していつの間にか、自分たちの立場が、主従のような関係になっていることを無意識ではなく、ハッキリと意識していたようだ。
そのためにどうなっていったのかというと、まず、中西の方の言葉が少なくなっていった。
――涼子なら、何も言わなくても分かってくれる――
という思いが強かった。
実際に、何も言わなくとも、痒いところに手が届くような涼子は、実に献身的な奥さんになっていた。
――もし、結婚相手が中西でなければ、ここまで献身的になれたかどうか分からないわ――
と、涼子に思わせるほど、涼子は実に献身的に中西に尽くした。
それがまるで生きがいのように思っていた涼子だったが、その思いは、残念ながら中西に通じていなかった。
それまで人に尽くされたことのない中西は、自分がどのように人から見られているかということだけ気にしていた。
「別に人の目なんか気にしないよ」
と嘯くようになったのは、それからまだ後のことだった。それまでは、人の目を必要以上に気にしていたのだった。
人の目を気にしなくなったのは、そんな自分に対して疑問を持つようになったからである。
――僕って臆病なんじゃないか?
と思うようになった。
これも今さらなのだが、臆病だということを感じるようになると、余計に自分に対して過敏に反応してしまうことを意識した。
――過敏な反応が、自分を疑心暗鬼の状態にさせるんだ――
と感じた。臆病に感じたのは、その疑心暗鬼の表れに過ぎない。それを意識すると、涼子が尽くしてくれるのをいいことに、自分の存在を鼓舞しようと思うようになってきたのだった。
涼子としばらく離れている間、涼子に付き合っている男性がいることも知っていた。何しろ、涼子から彼のことで相談されたこともあったからだ。
その時、中西は誰かと付き合っているわけではなかった。それなのに、涼子が相談してきた時、まるで恋の先輩でもあるかのように、口から出まかせに近い助言をしてあげた。
――どうせ、他人事だ――
と半分投げやりだった。
――こっちの気持ちも知らずに――
という思いが強く、助言するなら、思い切り自分を鼓舞してやればいいと思っていた。それで自分に対して、尊敬の念を持ってくれることで、
「やっぱり、あなたがいい」
などと言われると、最高だという思いを抱いていたのも事実である。もっともそれくらいでなければ、助言なんてできないだろう。
「俺に聞くのはお門違いだ」
と言って、突っぱねてもよかったからだ。
どうして突っぱねなかったのか自分でも分からない。自分の中で葛藤があった。それは「意地」という葛藤だった。無下に突っぱねて、他人事だとして優越感を感じながら接したとしても、中西の中で大した差はなかったはずだ。
それなのに、助言をしたというのは、心の中で、
――嫌われたくはない――
という思いがあったのも事実だ。
作品名:記憶が意識を操作する 作家名:森本晃次