記憶が意識を操作する
さらに、遠ざかっていた間、中西の中で、何か見る目が違ってくるような何かがあったかも知れない。本人には意識はないが、少なくともみのりと最初に付き合っていた時期は、それまでの自分とはまったく違った感覚であり、しばらく離れていても、今度は寂しいという感覚がまったくなかった。
――今は離れているだけで、また涼子とは近い将来、付き合うことになるんだ――
という思いを、かなり高い確率で感じていたからだった。
涼子と再会した時、最初に感じた
――前から知り合いだったような気がする――
というのを思い出した。
本当に前から知り合いだったのだから当たり前のことだが、そう感じたことで、自分の気持ちがループしているのではないかという錯覚に陥っていた。
――錯覚は、堂々巡りを引き起こす――
というのが、今まで生きてきた中で感じた一つの教訓だった。
ということは、
――涼子に感じたことは錯覚だったのだろうか?
まるで、一度しばらく離れて、その後再会することを最初の出会いから分かっていたかのように思うと、おかしなもので辻褄が合っているのではないかと思えてくる。
だが、それと同じ思いを、実はもっと前にしたような気がしていた。別れた相手と、再会するのではないかという思いである。
再会すると言っても、涼子との間での再会ほど短いものではない。一生を掛けて、再会するまでに費やす時間があるのではないかという思いである。
もし、それが誰なのかというと、中西の中ではすでに分かりきっていた。
「みのり以外にありえないではないか」
毎日のようにお邪魔して、ずっと一緒にいる毎日が永遠に続くのではないかという思いを募らせるほど長かった幸せだったと思っていた時期、あの日々はどこに行ってしまったのだろう?
そう思いながらも、いつかは必ず自分の前に現れることを期待している自分がいるのに、涼子との間での恋愛感情にもウソはない。
――僕って、そんなに優柔不断な性格なんだろうか?
ただ、この場合、優柔不断という言葉が本当に適切なのかどうか、中西には分からなかった。優柔不断というよりも、
「二人は、自分の中では次元が違う」
というのが、言いたいのだが、もし、これが自分ではなく他の人なら、
「そんなのただの言い訳にしか過ぎない」
としか思わないのも当然のことだった。
人に対して当然のごとく考えるのだから、自分だけ特別だなどというのは卑怯だということは重々分かっているつもりなのに、なぜか次元が違うという言葉が言い訳として使われるとは思えない。
涼子は、そんな中西の想いを分かっているのだろうか?
普通分かっているのだとすれば、黙っているわけもない。だが、涼子を見ていると、分かっていてもそれを責めることのできない性格に思えてならない。
――涼子の後ろに、どうしてもみのりを見てしまう――
と、本来であれば言い訳にしかならないような思いを、自分の中で正当化させ、納得させている。
――優柔不断ではない――
という思いにさせるための、苦肉の策なのかも知れない。
みのりが、中西少年と一緒だった時、すでに不治の病に身体を侵されていて、治る見込みのない毎日を過ごしていたことを、中西は小学校を卒業する時に知った。屋敷が人手に渡ってしまった時の噂として小耳に挟んだ話だったが、中西少年には信じられなかった。
――言われてみれば、そんな気配はあったかな?
とも感じるが、俄かに信じられるものではなかった。
みのりがいなくなった時にその話を聞いていれば、一番ショックが大きかったかも知れない。しかし、ショックが薄れていくにつれて、真実を受け入れるだけの気持ちが出来上がっていたのではないかと思った。
しかし、かなり後になって知らされたのであれば、ショックは少ないかも知れないが、その分、リアリティに欠ける。そのため中西は、いまだに
――みのりがどこかで生きている――
という幻想を抱いていた。
少なくとも、木村さんの口から、
「みのりお嬢様はお亡くなりになりました」
とでも言われない限り、信用はしないだろう。
中西が最初に涼子に出会った時、みのりの面影を感じたが、それ以上でも、それ以下でもないという感覚に落ち着いたことに何か違和感があったが、それは、面影を与えてくれたみのりがこの世にいないという話を聞いてしまったからに違いなかった。もし、みのりがこの世に存在してくれているのであれば、涼子に対してもう少し違ったイメージを感じたことだろう。
ひょっとすると、付き合おうなどと考えなかったかも知れない。付き合ったとしても、長続きしたかどうか。
それは、みのりの面影がハッキリと残った中で涼子を見た時、ずっと同じ感覚でいられないと思ったからだ。最初にみのりのイメージ以外、何物でもないと感じたとしても、付き合っていくうちに、
――どうして、みのりを感じてしまったのだろう?
と思うのではないだろうか。
それは半信半疑でありながら、対象を涼子に絞った時、
――みのりは、もうこの世にはいないんだ――
と思ってしまうからだ。そう思ってしまったら、みのりへの意識は記憶の中に封印されてしまう。永遠に小学五年生のあの時のみのりは、中西の中で年を取ることはないのである。
中西も、みのりのことを封印された記憶の中から呼び起こす時は、自分が小学三年生のあの頃に戻ってしまっていることを気付かされる。
しかし、涼子と一緒にいる時は、れっきとした大人になっている。大人である以上、記憶の中のみのりが出てくるはずはない。だからこそ、みのりの面影を感じながら、それ以上でもそれ以下でもないのだ。そのことに気付くまでに少し時間が掛かった。
中西が絵を描こうと最初に感じた時、本当は人物画を描くつもりだった。その中の被写体は、みのりだったはずで、みのりのイメージは頭の中にあるのだが、それをキャンバスに乗せ換えようとすると、イメージが頭の中から消えてしまった。
そのことが、
――僕には、人物画を描くことができないんだ――
と思わせるに至ったのである。
人物画を描くことは難しいと思っていた。しかし、絵を描くことを志した以上、人物画が描けるようになるのは目標であり、しかも、被写体がハッキリしているのだから、目標が夢に繋がっていった。
本来なら夢というものが漠然としていて、しだいに漠然としたものが形になってくることで夢が目標に変わり、達成感を求めるようになるのが普通だと思っている。それが逆になってしまったということは、自分の中で認めたくはないと思いながらも、みのりがすでにこの世にいないことを自覚した上で考えているからに違いない。
だが、中西の中には、
――いずれ、またみのりに会える――
と感じているのも事実だった。
元々、諦めが悪い方ではない中西だったが、時々、頑固なところがあった。しかし、それもまったく根拠のないことに対して頑固だというわけではない。何かの裏付けがない限り、頑固になることはなかった。裏付けとはもちろん、根拠のことで、中西の中の根拠のキーを握っているのが、木村さんだと思っていた。
作品名:記憶が意識を操作する 作家名:森本晃次