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記憶が意識を操作する

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 元々記憶力のいい方ではなかった。集中している時に覚えなければいけないことはちゃんと覚えていたのだが、最近では、覚えなければいけないと感じなくなったからなのか、それともいつものように覚えていることだから意識しないでいいと思ったのか、覚えているだろうと思うことを完全に忘れてしまっている。
 完全に忘れるということは、却って難しいことだ。漠然とでも覚えていることがあって、その中に少しずつ忘れていく要素が生まれることで、覚えていると思っていることを完全に忘れるプロセスに入ってしまったことを自覚することはあった。
 しかし、完全に忘れることなどできない。気が付けば、忘れるプロセスを意識しないことが、記憶の中に封印されたことを教えてくれる。もちろん無意識なので、教えてもらったことを意識するのは、後になって、何かを思い出そうとした時だけだ。それも思い出そうとしたことを思い出せれば、プロセスがあったことは問題ではないので、気にすることはない、思い出せなければ、そこまで行きついていないから、意識することもない。どちらにしても、記憶の中に封印されたプロセスを思い出すことは皆無に近いことであるに違いない。
 自分の絵ではなく、美術館で絵を見ていると、どうしても最初にどこか一点に絞って見てしまうくせがついていた。
――仕方ないな――
 と思いながらも、自分の絵との違いを一生懸命に探している。どんなに有名な画家の絵であっても、自分の絵との違いを見つけると、
――ここは自分の方が優れている――
 という場所を探してしまう。そして意外と簡単に見つかった気がしてくるのだ。
 どうしても、贔屓目に自分の絵を見てしまうのは、絵を描いている時の自分が普段の自分と違って、まるで他人のように思えることから、作品も他の人とは一味違うものを生み出している感じがするのだった。
 中西が絵に興味を持ったのは、防波堤から見える海と波の境目を見たからだったが、それだけでは、ここまで絵にのめりこむことはなかっただろう。絵に興味を持ったとしても、実際に描こうと思うようになるには、誰かに思いきって背中を押してもらう必要があるのだ。
 その背中を押してくれた人は、他ならぬ木村さんだった。
「私もね。高校時代から絵を描くのを趣味にしていましてね。私の影響からか、みのりお嬢様も、絵をお描きになるんですよ。そういう意味では、この土地は海も山もあっていいところではないでしょうか?」
 と話していた。
「私は人物画が多いかしら?」
 と言ってみのりが描いた絵を見せてもらった。そこに描かれていたのは、一人の女性 で、誰がモデルなのか分からなかった。
「この絵のモデルは?」
「私は、自分で想像した人を絵に描くようにしているんです。だから、モデルというのはいないんですよ」
「それで、よく描けますね?」
「ええ、どうしてなのかしら?」
「それだけ想像力が豊かなのかも知れないですよ?」
「そうなのかしらね。でも、一つ言えることは、おかげで見たものをあまり忘れないようになったような気がするんです」
「忘れないというのはすごいですよね」
「私の中では、『忘れてはいけない』という意識よりも『覚えていよう』という思いが強いのかも知れないです。『忘れない』と『覚えている』というのは似ているように思うんですが、『覚えている』という感覚の方が、前向きな気がするんですよ」
 確かに忘れないという意識の方が、覚えているという意識よりも印象深い気はしているが、前向きという意味では、みのりの言う通り、覚えているという方が強いのかも知れない。それはまるで、「減算法」と「加算法」の考え方の違いに思えた。
 高校生になって、そのことを思い出した時に感じたのは、将棋を得意としている人の話を聞いた時だった。
「一番隙のない形は、最初に並べた形で、一手指すごとにそこに隙が生まれるものだ」
 という話を聞いたことがあった。
――動けば、隙ができる――
 というのは、「減算法」の考え方だと思った時、
――記憶にしても、絵を描くことにしても、加算法の方になるのかも知れないな――
 記憶というものは、意識という箱から、記憶という箱に移行する時に、「忘れない」、あるいは「覚えている」という感覚に変わるのだろう。
 意識という箱の中から記憶を見た時、「覚えている」という思いがあり、逆に記憶という箱の中から意識を見た時、「忘れない」という感覚になるのかも知れない。記憶というのは、過去の記憶すべてが累積されているところであり、増えていくところ、そして意識というのは、記憶に送られる前の、考え方を育むために置かれている場所であり、記憶に送られると、その場所からは消えてしまう。つまりは消えてしまった意識だけを見てしまうと、「忘れる」という感覚になるのだろう。
「忘れてはいけない「
 と思うことは、記憶の中に行ってしまったものを呼び起こすことに自信がないから、ずっと意識しておこうという無意識な思いであり、それは、かなり無理をしていることにも繋がっている。
 無理をするということは、冷静さを失わせ、焦りを呼ぶ。後ろ向き以外の何物でもないだろう。
 せっかく自然にしていれば、無理をすることもなく、覚えていることもできたのかも知れないが、無理をしてしまうことで、隙を作ってしまう。それがいかにも「減算法」の一番の問題点であり、
「まるで絵に描いたようだ」
 という絵を描くことを比喩に使われることの皮肉を生むことになるのだろう。
「そういえば、あの時、みのりが描いた絵。あれは誰だったんだろう?」
 という疑問が解決したのは、しばらく会わなかった涼子と再会してからだった。
 最初に涼子に会った時に、
――初めて会ったような気がしない――
 と感じたことが、涼子と付き合うきっかけになったのだが、似ていると思ったのは、みのりの面影を感じたからだった。
 しかし、今から思うと、みのりの面影というよりも、みのりが描いた人物画に似ていたというイメージが今では強くなっていた。
――だけど、あの時に見た人物画と、みのり自身が似ていたという感覚はなかったんだけどな――
 最初にみのりに感じた、「似ている」という感覚、そこにウソがないのだとすれば、再会した時に感じた涼子に対して、みのりが描いた絵が似ていると思ったのであれば、みのりと、みのりの描いた絵が似ているということでなければ成り立たない。
――それとも、最初に出会った時の涼子と、再会した時の涼子とで、どこかが違っているのだろうか?
 とも考えられる。
 第一印象から以前に会ったことがあるかも知れないと感じた相手と、付き合っていくうちに相手への印象が変わっていくということは得てしてあるもののようだし、しかも涼子とはしばらくの間遠ざかった期間があったことで、今度は知っているはずの相手なのに、初対面のようなイメージを感じると思う正反対の感情が、同じ人間に対し、まったく別人の印象を与えたとしても、そこに不思議はないのかも知れない。
作品名:記憶が意識を操作する 作家名:森本晃次