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絶妙のタイミング

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 もちろん、信二のことも気にしていたわけではない。元々、一人でも十分な性格だった先輩を、信二は慕って近寄って行った。先輩に人を引き付けるオーラがあり、まんまと惹きつけられたのが信二だった。
 先輩も、自分の言葉一つで動いてくれる人がいるというのは気持ちいいはずだ。気持ちが増長しても仕方のないことなのだろうが、元々一人でもいいと思っていた性格、人が自分のためにやってくれる行動は、プラスアルファ的なもので、別になくても、自分が困ることはないと思っていた。それだけ、自分の発した命令にも、それをきいてくれる人間に対しても、かなり軽視していたようだ。
 ここが、信二との間で、決して交わることのない平行線が存在する理由だった。
 平行線があるために、信二は先輩の気持ちを探ろうとしても見つけることができない。だからこそ、信二が先輩との決別を自分に納得させることができないのだ。
 信二が、先輩の命令に逆らったことは一度だけ、そして、その一度のために、先輩は自我を失い、そして、信二の前から去って行った。
 信二は、その時、先輩が自分の前から離れていったのは、自分が先輩の命令に逆らったこと、それがすべてだと思っていた。
 あとから思えば、先輩の命令は常軌を逸していた。そんな命令に従うというのは、自分を納得させる以前に、
――あってはいけないことなんだ――
 と、そこまでどうしてすぐに気が付かなかったのか、自分でも分からなかった。
 先輩が、少しおかしくなったのは、彩名と信二が一緒にいるのを見られた時からだった。信二は先輩から見られていたという意識はない。逆に彩名の方が先に気が付いた。
「ねえ、信二君、変な人がいるんだけど」
 と、彩名がしばらくして、信二に打ち明けたことがあった。
「変な人というのは?」
「なんか、いつも私のことを見ている男の子がいるんだけど、ちょっと怖いわ」
 という彩名の話の相手が、まさか先輩だとは思わなかった。
 その頃の信二も彩名もまだ、小学校低学年。異性を意識することはなかったが、彩名とすれば、自分のことをいつも見ている男の子がいるというだけで純粋に怖いと思っていたのだ。
 それが先輩だということを知ったのは、先輩から気になっている女の子がいるということを聞かされたからだ。
「可愛いという印象じゃないんだけど、何だろう? 苛めてみたいという気持ちになってるんだよ」
 先輩の言っている意味はさっぱり分からなかった。
「苛めたいって、そんなのダメですよ」
「そうだよな。苛めたいといっても、悪戯したいというイメージなんだけど、いけないことなんだよな」
 と、まるで自分に言い聞かせているような素振りだった。
 信二は今までそんな先輩の姿を見たことがない。どこか弱気な先輩だったが、信二はなぜかホッとした気がしていた。先輩が考えていることは許されることではないのは分かっているが、先輩から、
「やれ」
 と言われれば、自分も女の子に悪戯くらいはしたかも知れないと感じたほどだった。それだけ先輩と話をしていると、許されないことであっても、先輩がいてくれれば、何でもできる気がしたのだ。
 だが、そんな思いが本当に実現を迎える日がやってくるなど、想像もしていなかった。
 先輩が気になっていて苛めたいと思っている女の子が彩名だということは、すぐに気が付いた。
――これはやばい――
 と、信二は彩名の身の危険を察知したが、先輩が思い詰めている姿を見ると、止めることもできないのが分かっただけに、どうしていいのか分からなくなった。
 小学生の信二に、どうしていいのかなど分かるはずもない。信憑性のない話を他人にして、助けを求めるわけにはいかない。先輩が口にしているというだけで、まさか本当に行動に出るという可能性は、ほぼゼロに近い。だが、その時信二は、
――限りなくゼロに近いと言っても、完全なゼロではないのだ――
 ということに気付いていなかった。
 信二が、先輩に意義を唱えたとしたらどうだっただろう? 先輩は思いとどまっていただろうか?
 人によっては、他の人から指摘されると、どんなに気持ちが盛り上がっていても、止めることができる人もいるようだ。
 だが、そんな人はほんの一握りにしか過ぎない。その時信二は、
――先輩は、そんな一握りの一人に違いない――
 という思いもあった。
 言ってみるだけの価値はあったかも知れない。しかし、信二には言えなかった。それは、自分の心の中に、
――嫌がり抗う彩名の姿を見てみたい――
 という邪な気持ちがあった。
 それは邪な気持ちだというよりも、それが信二の本性だということに、気付かなかった。だから、邪な気持ちが思い浮かんだ瞬間、
――ありえない――
 ということで、必死になって自分の中に気持ちを封印しようとした。
 封印された気持ちは、信二にとっての、一種の記憶の欠落なのかも知れない。あまりにも一瞬のことなので、本人に意識はないが、彩名の記憶が欠落している部分があるということに気付いた時、信二はそのことを思い出すことになる。
 先輩が彩名に悪戯したいと、信二に計画を打ち明けたのは、信二が、彩名を意識し始めてからだった。
 その意識は、
――嫌がり抗う彩名の姿を見てみたい――
 ということから来ているということだったのだが、こんな常軌を逸したことに対して賛同してしまった自分が許せる時期は、まさにこのタイミングだけだったのかも知れない。
 絶妙のタイミングを、偶然という言葉で片づけられるとすれば、偶然という言葉は漠然としたものではなく、根拠をともなったものになってしまう。
「偶然も実力のうち」
 と言われることもあるが、偶然が根拠のあるものだとすれば、この言葉も十分に説得力のあるものだと言える。
 ただ、今の信二は少し違った考えを持っている。
――世の中というのは、絶妙のタイミングと、偶然で成り立っている――
 と思っている。
 これは、絶妙のタイミングと偶然を同じ言葉で考えようとしたことと、まったく逆の発想である。
 しかし、絶妙のタイミングは偶然ではないという考えを持っているのは、彩名の方だった。
 再会してから、このことが話題になったが、信二が考えているこの二つは同じものだという話に、彩名は苛立ちながら、完全に否定した。
「絶妙のタイミングというのは、まわりの偶然が引き起こしたものだと私は思うのよ。確かにその人の感性で、絶妙のタイミングを産むのだとしても、それを偶然と言ってしまうと、同じシチュエーションでは、二度と同じタイミングを掴むことができないということですよね」
「でも、偶然という言葉を漠然としたものだと思うからそう感じるんだろう? 漠然としたものではなく、理由づけて納得させられるものだとするのなら、それが絶妙のタイミングだと言えないだろうか?」
「私が言いたいのは、絶妙のタイミングは、自然現象ではなく、その人の中でずっと培われてきたものから生まれるものだと思うということ、確かに自然の摂理などのように力を持ったものであれば、説得力もあるのだろうけど、その人の努力は、まったくその中に反映されていないじゃない。それだとあんまり寂しいと思うのよ」
作品名:絶妙のタイミング 作家名:森本晃次