絶妙のタイミング
クラスメイトの女の子は、お決まりの、
「あの先輩がいいわね」
と、年上の男性に憧れを持つ。それを見ながら、
「そうね」
と相槌を打つが、心の中は冷静さよりも凍り付いたような答え方だったが、友達は彩名のそんな様子に気付かない。
――何て鈍感なのかしら?
と思ったが、男性を好きになるとそれくらい盲目になるものだということを、その時の彩名は知る由もなかった。
彩名が、ここまで凍り付いた目をしているということにまわりは誰も気づかなかったようだ。それだけまわりは思春期の男女に溢れている。彩名には息苦しいばかりだったが、それを跳ねのける意味でも、凍り付いた目は必要だったのだ。
だが、そんな彩名のことを遠くから見ていて、そのくせ、凍り付いた目を一番感じていた人がいた。それが信二だったのだ。
信二は、
――自分こそ、彩名の一番の理解者だ――
と思っていた。
しかし、それを恋心だとは自分で認めようとはせず、もちろん、告白などするはずもない。
もっとも告白しても玉砕するだけなのは、分かりきったことだった。
――あの目で見つめられたら、告白なんかできるはずもない――
と思う気持ちと、
――あの目をしばらくは放っておきたい――
という気持ちとで信二の考えは二分していた。
彩名のその目を、信二は恐れているというよりも、
――貴重な存在だ――
と思うようになっていた。その思いが彩名に対しての恋心とうまい具合に調和して、遠くからでも暖かく見守ることができているのだと感じていた。彩名がそのことに気付くはずはないだろうが、信二にとっては、それが一番ありがたかったのだ。
信二は、彩名の理解者として、彩名が何かあれば自分に相談を持ち掛けるように仕向けることを考えていた。実際に、彩名には相談する相手がいるわけでもなく、悩みごとは一人で抱えていた。それでも、悩みが深くなると信二の視線が気になるようになり、自然と信二に相談を持ち掛けるようになる。
信二は親身になって相談に乗ってあげたが、自分の意見に信二は酔っていた。彩名がそんな信二を信用したのは、二人のバイオリズムが合っていたからなのかも知れない。
その頃の彩名にはまだ躁鬱症の気はなかった。彩名が躁鬱症を感じるようになったのは高校生になってから。そう、信二と離れてからのことだったのだ。
「いずれ、どこかで会えるさ」
別れの時、涙を流し号泣していた彩名が思い出された。彩名にしても、ここまで号泣したのは、後にも先にもその時だけだった。
「本当ね。また会えるよね?」
「当然さ。僕にはそれ以外は考えられない。でも、彩名は僕と再会する前に、きっと他の男性と知り合うと思う。彩名のことを分かっている男性が現れると思うんだ。彩名は自分のことを分かってくれる人が現れると、惹かれてしまう傾向にあるようだけど、全面的に信用してはダメだよ」
と言っていた。
その言葉、絶対に忘れることはないと思っていたはずなのに、信二と再会して、ハッと思い出した。つまりは忘れていたのだ。
――どうして忘れたりしたんだろう? というよりも、忘れたという意識はない。覚えていないといけないという思いをずっと持っていて、信二と出会ってハッと思い立つまで、私は忘れていたということに、気付かなかったんだわ――
と感じていた。
この思いが何を意味するものなのか、ハッキリと分からなかったが、
――忘れるということは、覚えることを止めるというのとは、違うイメージで思っていたのに、実際には同じことだということを思い知らされた気がする――
と、感じた。
結果としては同じことでも、忘れるということは、無意識に行うことであり、覚えるのを止めるというのは、意識的に行わないとできないことだ。それは、忘れるという行為は、最初に覚えることから始まって、そのまま無意識に記憶のどこに収めるかという選択をする時、封印する方に入れるということである。覚えるのを止めるというのは、まだ覚えるところまでは至っていない。つまり記憶云々以前の問題なのだ。意識が伴わないと、そのまま覚えてしまうのが、人間の摂理というものではないだろうか。
――人は、無意識なら、記憶するようにできている。でも、思い出せる記憶なのか、思い出せない記憶なのかの振り分けは、本人の意志に関わらず、無意識のうちに行われる。それが本能なんじゃないかしら?
と、彩名は感じていた。
欠落した記憶を感じている彩名だからこその考え方だと言える。他の人はもっと違う考えを持っているだろう。そして、彩名に欠落した記憶がなければ、違う考えを持っていたはず。そこまで考えてくると、
――世間では、人の数だけ違う考えを持っているのかしら? それともいくつかのパターンに分けられている中のどれかに必ず当て嵌まるようにできているのだろうか?
と、考えるようにもなったが、彩名は、いくつかのパターンに分けられているように思いながらも、人それぞれ微妙に違っていて、決してこの世に同じものは二つ存在しないのではないかという考えでもあった。要するに、それぞれの考え方の「いい所取り」という感じで考えているようだ。
それにしても、信二の彩名に対してのあの絶対的な自信はどこから来るのだろう?
――ひょっとして、人は一生のうちに、自分が絶対的に自信を持てる相手がどこかで見つかるのではないだろうか?
それが、いつのことなのか、どこでなのか、そしてもしその時に遭遇したとして、その人は、本当に自分が絶対的に自信が持てる相手なのかということに気付くかどうかということが一番肝心なのではないかと思うのだ。
彩名には、まだ見つかっていないが、信二にとってその相手は彩名だった。
彩名は、それを感じた時に、
――私の相手から、信二は消えてしまったんだわ――
と思い、落胆していた。ひょっとすると自分の相手が信二だと思っていたからである。
だが、本当にそれでいいのだろうか? 双方向からお互いに自信が持てる相手だとして見つめることもありなのではないだろうか? お互いに好きになって、相手を大切に思うことができればそれが思いやりに繋がるように、相手に対してお互いに自信が持てるということは、これ以上の絆はないのではないかと思うからだ。彩名は、最初に自分の相手が信二ではないと思いこんだことで、自分が堂々巡りを繰り返すことになるなど、想像もしていなかったことだろう。
しかし、自分が絶対的に自信の持てる相手が、同じように自分に対して自信を持ってしまえば、どうなるのだろう?
本当にその二人はうまく行くようにできているのだろうか?
確かに相手に対して自信が持てるということは、それだけ相手が見えるということだろうから、相性は合う二人なのかも知れない。
しかし、見えすぎるというのも、本当にいいことなのか分からない。見えすぎてしまうということは、いいことだけならいいのだが、悪いことまで見えてしまう。
ただ、中途半端に見えるよりはいいかも知れない。