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絶妙のタイミング

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――その期間が来るまでは、決して抜けることはない――
 という、焦っても仕方がないという思いとの二つが大きくのしかかってきた。
――まるで夢のような感覚だわ――
 と、彩名は、自分の性格を夢に置き換えて考えていた。
 夢だって、覚めない夢などないはずである。
 怖い夢であれば、早く覚めてほしいと思い、楽しい夢であれば、このまま覚めないでいてほしいと思う、
 それは、夢を見ている間、印象深いものには、
――これは夢なんだ――
 という意識があるからだ、
 躁鬱症にだって同じようなものがあり、躁状態の間に、辛いことがあっても、
――今なら乗り越えられる――
 という思いと、鬱状態の間に、楽しいことがあれば、
――この感覚を忘れたくない――
 という思いに陥ることだろう。
 そう思うと、躁鬱症であっても、自分の中に性格の意識がある限り、いかに自分に都合よく考えられるかということがカギになってくるに違いない。
 しかし、彩名は最近になって、自分が躁鬱状態の繰り返しから抜けられるのではないかと思うようになってきた。
 躁鬱の繰り返しを感じるようになってから、三年が経っていた。この三年が長かったのか短かったのかは、今現在としては、
――長かった――
 と思っている。
 しかし、完全に抜けてしまって過去を振り返ると、
――あっという間だった――
 と思うだろうと感じた。
 それは、夢から覚めた時と同じである。目が覚めた瞬間、まだ意識が朦朧としている間は、
――夢は長かった――
 と感じているが、意識がハッキリしてくるにつれ、
――あっという間だった――
 と感じるようになる。それは、夢の世界が別の世界だという意識があるからで、立体の世界から、平面を見ているような感覚に陥っていた。
「夢というのは、どんなに長い夢であっても、目が覚める数秒前に一瞬見るものだっていうよ」
 という話を聞いたことがある。
 それがどういうことを意味しているのか、話を聞いた時には分からなかったが、目が覚めた瞬間、そして意識がハッキリしてきた瞬間とで夢のことを思い出そうとした時に、この話を思い出した。
 人から聞いた話というのは、よほど自分の経験と照らし合わせて、経験上合致していなければ、次第に忘れていくものである。
 この話も、すでに忘れていたが、夢について実際に目が覚める時に感じたことで、すぐに思い出した。
 思い出したというよりも、一瞬、自分が思いついたことのような錯覚を覚えた。
――いや、錯覚ではなく、自分が思いついたことと、過去に聞いた話が合致して、シンクロしているのではないだろうか?
 というようにも感じたのだ。
 彩名は、自分の過去に何かか禍根を残してきたことを意識し始めた。それが何か分からない以上、余計なことを考える必要はない。
 言い知れぬ不安に襲われたのは、降り悪く、鬱状態の時だった。
 だが、幸か不幸か、ちょうどその時の彩名は、
――私の躁鬱状態は、今回で終わるんだわ――
 という意識を感じ始めた時だった。それまでは漠然とした感覚だったが、過去の禍根を感じることで、今回で終わるであろう躁鬱状態という意識が、確信に近づいた気がしたのだ。
 彩名は、しばらくしてから、記憶の一部を思い出すことになった。
 思い出したといっても、それほど重要なことを思い出したわけではない。しかも、しばらくしてから、思い出したはずの記憶がまた結界の向こうに隠れてしまったのを感じたからだ。
 結界の向こうに隠れてしまうと、思い出したという事実は理解できても、それがどんな記憶だったのかということは思い出せない。何とも中途半端な感覚であり、
――まるでヘビの生殺しのようだ――
 と、感じるくらいだった。
 彩名は、忘れてしまったとはいえ、それが、
――見てはいけない何かを見た――
 ということであることは分かっていた。忘れてしまったとはいえ、完全に忘れてしまったわけではない。それだけに、気持ち悪いものが残ってしまい、中途半端な気持ちが消えないのもそのためなのに違いない。
 記憶の一部を思い出したのは、躁鬱状態の繰り返しを抜けたからだと思っていた。躁鬱状態にいる間は、自分が縛りの中にいて、抜けられないことで、
――自由がない――
 と思っていたが、本当は、
――見えない力に守られていたのだ――
 ということが、彩名の中で縛りというものの再認識に繋がった。
 躁鬱状態を抜けることに、不安を感じたのは、きっと見えない力に守られていたということを自分で意識していたからなのかも知れない。それを分かっていたからこそ、彩名は躁鬱状態でも、もがくようなことはしなかった。焦れば焦るほど、自分の首を絞めることになるのを分かっていたからである。
 見えない力というのは、夢にも存在している。
 夢で見たことが現実になる「予知夢」というのがあるが、彩名は今までに予知夢を見たことがあったように思う。
 その夢自体が何か影響を及ぼしたわけではないが、その夢を見たことで、自分のまわりに起こった不吉な出来事から身を守ることができたのではないかと思うようになった。
 朝、出かける時、ちょっとした電話。実際は間違い電話だったのだが、
「もう、余計な電話のせいで、遅刻するじゃない」
 と、不満タラタラで駅まで行ったが、電話のせいでいつも乗る電車には乗れるはずもなく、次の電車を待っていたが、
「先行列車が脱線事故を起こし……」
 という館内放送が入った。
 彩名の頭は混乱した。混乱しながら、必死で頭の中が回転しているのを意識していたが、
意識の矛先は、自分が助かったのだということを示していた。
――もし、あのまま乗っていたら……
 そう思うと、ゾッとした。まるで虫の知らせでもあるかのようなあの電話は、本当に偶然だったのかと言われれば、
「決して、偶然ではない」
 と言いきれるのではないかと思っていた。
 虫の知らせというものを今までは信じたことはなかったが、今回のことはさすがに信じないわけには行かなかった。
 人間というもの、自分の生死にかかわることであれば、信じないわけにはいかないものなのだろう。
――ひょっとして自由がないと思っていたようなことが、本当は守られていたという意識に繋がっていくのかも知れない――
 その時、一緒に感じたのが、
――あの時の電話の声。どこかで聞いたことがあるような気がする――
 最初に電話に出た時、違和感がなかった。それは聞き覚えのある声だったからである。しかし、すぐにそれが間違い電話だと気付いた。なぜなら、聞き覚えのある声の主が、自分に電話などしてくるはずがないからだ。しかも、早朝、よほどの緊急性でもない限り、掛かってくるはずもなかった。
 だが、違和感なく電話を取った時、変な胸騒ぎがした。やはり、最初に声の主を思い浮かべた時に、緊急性まで頭が回ったからなのだが、間違い電話だと言われると、すぐに納得した。それでも、胸騒ぎは消えなかった。
 その胸騒ぎが、まさか事故の予見だったということに、すぐには結びつかなかったが、虫の知らせだと思った瞬間、胸騒ぎが虫の知らせを持ってきたと思うことで、偶然ではなかったという結論に至ったのだ。
作品名:絶妙のタイミング 作家名:森本晃次