絶妙のタイミング
彩名が想像している救世主というのは、決して笑顔を見せたりするものではない。ほとんどが無表情で、憐みだけを救う相手に見せている。
信二は、彩名が想像していた「救世主」そのものだった。
だが、彩名は最初はそれでもよかったが、途中から心境が変わって行った。信二が「救世主」だとすれば、それは彩名に向けてだけではなく、他の人にも平等に「救世主」としての勤めを全うしようとするだろう。
最初は、そんな信二のことをまわりに、
――どう、この人は私の昔から知っている人なのよ――
と、優位性を保つための「道具」に使っていたことで、別に彼が誰に憐みを向けようとも不満はなかった。
しかし、次第に信二のことを思い出していくうちに、昔、自分が信二を好きだったんだという記憶を思い出してしまうと、もういけない。
――信二を一人占めしたい――
という思いに駆られてきた。
信二のことを思い出したと言っても、完全に思い出したわけではない。少しずつ思い出せばいいものを一気に思い出そうとするから、
――彼のことを好きだった――
という事実だけが表に出てきた。その時の心境はまだ、どこかでウロウロしているに違いないが、事実がある以上、心境がなければどうしようもない。魂だけがあっても、口がなければ誰にも思いを伝えられないのと同じことである。
信二のことを思い出していると、ある程度のところまできて、
――それ以上、思い出してはいけない――
という心の声が聞こえた。
それまで順調に思い出していたと思っていたのに、あるところまで来ると、そこに門番がいて、そこから先を通そうとしない。
空には暗雲が立ち込めていて、今にも雷が落ちてきそうな雰囲気だ。しかし、雨は一粒も降っていない。何とも中途半端な雰囲気だろう。
この中途半端な雰囲気が、彩名の中に不気味さと、そして、果てしなさを感じさせ、
――ここから先は行ってはいけない――
という思いをさらに強くする。
目の前に広がった結界は、見えない壁を作っている。
不気味さは信二の今の雰囲気をそのまま投影しているかのようで、
――必然として作られた空間――
を感じさせるものだった。
――信二を一人占めにしたい――
という女心と、結界を見せつけられ、それ以上先に進んではいけないという心の声とが葛藤を始め、どちらも一進一退、彩名の中で均衡を作っていた。
この均衡は、いつどちらに傾くか分からない不安定な要素を持っていたが、それ以上に彩名に考える時間を与えていた。
それなのに、彩名には考える時間があればあるほど、結論を導き出すことはできないと思わざるおえなかった。
結論というのは、そう簡単に出すことができるものではないということを、彩名は最近知った。
知ったというよりも、人の口から言われることで、それまで漠然とした意識としてあったものが、初めて形として現れた気がしたのだ。
そのことを口にしたのは香織だった。香織は鬱状態に陥っている彩名を見て、
「無理して結論なんか出す必要はないのよ」
と、語り掛けるように言った。
彩名は何のことなのか分からなかった。鬱状態の時に何を言われても、ほとんど上の空でしか聞けないはずなのに、その時の香織の言葉は、妙に心に響いた。
やっと抜けてくれた鬱状態から、その時は躁状態に変わっていた。何を考えてもポジティブに考えられるそんな時期、一歩間違うと、すべてを軽視してしまいそうな環境の中で、香織のその言葉は、
「軽視への警鐘」
として、意識させるに十分だった。
――香織を控えめでありながら、冷静な性格にしたのは何なのだろう?
元々相容れない性格のように見える。彩名には、その二つが持って生まれたものには見えなかったのだ。つまりは、どちらかが持って生まれたもので、どちらかが、途中から身についた性格なのではないかと思えるようになったのだ。
躁鬱症にしてもそうだ。彩名が自覚し始めたのはいつの頃だったのか覚えていないが、思春期を通り越して、大人の仲間入りをしたように思えてきた時期からであった。
その頃の彩名は、自分が情緒不安定に陥るのを自覚していた頃で、それがまさか躁鬱症に発展するなど思ってもみなかった。
最初は躁状態からだったと思う。
急に見えなかったものが見えてきた気がした。その時の躁状態は、
――このまま果てしなくこの状態が続くのではないか?
と思っていた。本当なら躁状態が続くのであれば、心配事などないと思われるかもしれないが、それはあくまで表から見ての発想だった。
実際に彩名はその時覚えていた、言い知れぬ何かに怯えていたのだ。
目に見えない何か暗黒の物体、それが目の前に対峙している感覚、黒い物体は、実際よりも大きく見えてしまうという錯覚がある。そのことを意識しているだけに、彩名には余計に不気味だった。
――躁状態なのに、一体何に怯えているというのかしら?
情緒不安定がまた襲ってきた。
そのうちに、今度は鬱状態が忍び寄ってくるのを感じた。
躁状態である上に鬱状態まで襲ってくるというのは恐怖であった。
――鬱状態と躁状態とでは、共存はありえない――
という感覚を持っているからなのだが、果てしなく続くであろうと思われた躁状態に対して感じた怯えというのは、
――このことだったんだ――
と思わせるに至った。
――共存できない相手が忍び寄ってくる恐怖――
ということは、彩名には鬱状態が近い将来忍び寄ってくるということが分かっていたということなのだろうか?
そう考えないと納得できない状況だが、彩名には、やはり分かっていたのだろう。
なぜなら、躁状態はともかく、鬱状態には、今までにも襲われたことがあったという思いが浮かんできたからである。
――私は今まで鬱状態になんか陥ったこと、なかったはずなのに――
と自分の過去を思い出そうとしたが、すぐにやめた。
思い出したところでどうなるものでもないし、どうせ途中で行きどまってしまうことは分かっている。
――記憶の欠落部分があるからだ――
と今さらながらに思い出していた。
同じ思い出そうとするのであれば、鬱状態の記憶を呼び起こそうなどとする愚行の中で行っても、何の意味があるというのだろう?
彩名は自分の過去をあまり顧みたくないと思うようになったのは、欠落部分にぶち当たった時、過去を顧みることの意味を再確認させられることが分かっていたからだ。
彩名の心配は、取り越し苦労に終わった。鬱状態は想像していた通り襲ってきたが、ちょうど、躁状態はそれと同時に消えていったからだ。
だが、そのせいでさらに不安が襲ってきた。
――躁状態と鬱状態を交互に繰り返す人生を歩んでいくんじゃないかしら?
慢性化してしまい、躁鬱症として、自分の性格が形成されてしまう。それを恐れていたのだ。
彩名に鬱状態が襲ってきた時、躁状態になった時のように、
――果てしなく続く――
などという発想はなかった。その代わり、
――鬱状態には、一定期間の決まった時間がある――
ということが分かっていた。
つまりは、
――必ず、近い将来抜けることは間違いない――
という思いと、今度は逆に、