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絶妙のタイミング

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「僕はせっかく君が好きになってくれたんだから、君の心に少しでも近づこうと思ったさ。でも、君はいつも違う方向を見ていて。僕を見ているわけじゃない。そのうちに僕を見てくれるようになるんじゃないかという思いと、この僕が振り向かせてやろうという思いとがそれぞれ僕の中にあって、でも、結局君が振り向いてくれることはなかった。声が届くのなら、まだマシだったがそれもない。このあたりが潮時だと思ったとしても仕方のないことだ」
 彼の言っていることは当たっていた。
 確かに寂しさから、相手を求めた。そういう意味では誰でもよかった。
 彼が彩名に罵声を浴びせていて、彩名も売り言葉に買い言葉で、応戦しているが、甘んじて罵声を浴びてもいいと本当は思っていた。むしろ罵声を浴びて、口答えもしない方が、本当の彩名らしい。
――それなのに、どうして喧嘩みたいになったのかしら?
 別れの時に喧嘩になるのは仕方のないことだと思っていたが、まさかその場面に自分が遭遇し、しかも、自分から喧嘩を吹っかけるような態度を取るなど、冷静に考えれば、信じられないことだった。
――それだけ、興奮していたということなのかしら?
 と彩名は感じたが、興奮していたという意識は不思議となかった。
 だが、決して冷静だったわけではない。
――冷静でもなく、興奮していたわけでもない自分。あの時、私はどこに行こうとしたのかしら?
 喧嘩になった時のことは、ハッキリと覚えてはいるのだが、どこかを見ていたはずなのに、どこを見ていたのか、思い出せない。
――あの時と同じ状況になったとして、思い出すことができるかしら?
 あとから思えば思い出すことはできないと思う。しかし、いつ何かのタイミングで思い出す時が来ると信じている。ただ、思い出したとしても、またすぐに忘れてしまうことになるのだろうが……。
 彩名は、自分の中で完全に欠落してしまった記憶を持っているという意識がある限り、感じた思いを一度忘れてしまえば、再度思い出したとしても、それは一瞬のことであり、意識が働く余地はなく、思い出したことすら分からないような感覚に陥ると思っている。つまりは、一瞬の記憶回復が、さらに、本当の記憶を呼び起こすことを拒んでいるに違いない。
 そのことを、世間では「デジャブ」と呼んでいる。彩名はその言葉を知っているが、自分の意識の中の一瞬の記憶回復という問題と結びつけることができなかった。
 一瞬の記憶回復は、一瞬だが、本当に記憶がよみがえる。内容は覚えていないが、記憶がよみがえったという意識はある。そこがデジャブとの一番の違いだった。
 デジャブの場合は、記憶があって、欠落した部分を思い出そうとしているのか、それとも、記憶にあるといっても、自分が経験したことではなく、絵画や映像を見て、その中に入りこんでしまったという錯覚を覚えたことが、あとから同じような光景を見たことで思い出した錯覚の辻褄を合わせようとする感覚が生み出したものなのか。どちらであっても、思い出したと言えるものではない。
 信二と出会って、心の中に、
――私は、信二のことが好きなんだ――
 という意識が芽生えてきたことを感じていた。
 だが、それは、今まで自分の中に隠れていたものだという思いは少なかった。信二とは再会であるが、まるで、
「初めて出会った理想の男性」
 というイメージが強かった。
 それだけ彼は彩名が知っている信二ではなかった。
 だが、信二の中には、
――彩名が知っている男性――
 のイメージも感じられた。それも、彩名が鬱状態に入っている時に感じた思いに似ていた。
 鬱状態に陥った時の心境は、抜けてしまうと思い出すことは困難だった。今までにも何度か思い出そうとしたが、できなかった。鬱状態というのは伝染するという意識を持ち始めていた頃の話で、彩名は、
――ひょっとして、その時に感じた男性から、鬱状態を移されたのかも知れない――
 と感じたのだ。
 伝染する鬱状態というのは、風邪と一緒で、移した人は、移した瞬間に、鬱状態から抜ける。そして移された人が、そのまま鬱に陥る。つまりは、病原菌のようなものがあり、それが「悪さ」をするのが、鬱病で、一度に見える範囲で、鬱病の人は一人しか存在しえない。
 鬱状態というのは、陥った人が最初に考えるのは、
――二週間ほど我慢すれば、抜けてくれる――
 という思いである。
 実は鬱状態に陥った時に考えられることは、それ以上でもそれ以下でもない。最初に考えたことが、「すべて」なのだ。
 鬱に巣食う「病原菌」は、巣食った相手に自分の存在を意識させることはない。つまりは、誰かから伝染で受け取って、一定期間身体の中を巣食われて、気が付けば、他の人に伝染しているという意識はまったくない。あるとすれば、
――いつの間にかやってきて、二週間ほど鬱状態の時期があり、図ったように二週間ほどで抜けている――
 というものである。そこに何かの力が働いているとは感じたとしても、まさか病原菌や伝染などという意識は存在しないのだ。
 ただ、一つ彩名が気になっていることがある。それは、
――鬱状態に陥る人は限られた人間だけだ――
 という思いである。
 確かに、鬱になったことなど一度もないという人もいるのに、定期的に躁状態と鬱状態を繰り返す「躁鬱症」の人もいる。そして、鬱だけを定期的に繰り返している人もいて、一言で鬱状態といっても、陥る人は限られているのだ。
 ただ、それが「選ばれた人」だけだということなのかどうかは、彩名には分からない。
病原菌が巣食うには、精神的に巣食いやすい場所を持っている人が一番であり、そこから人間の神経を食べているのだと思うと、病原菌にも苦手な人間はいるに違いない。
――決して近づいてはいけない人間――
 というのを、本能が分かっていて、最初から見ようとしないのかも知れない。
――そういえば、前に付き合った男性は、私を直視できなかったわね――
 正面から見たくても、見ることができなかったんだ。彩名にそこまで分かるわけもなく、相手の男性も、漠然としてしか分かっていないので、説明のしようがない。
 そもそも言葉で表現できる状況なのだろうか。
「見えている部分」
 だけなら何とでも表現できるが、肌で感じている感覚を口にして説明するのは無理がある。
 しかも、相手を納得させなければいけないのだから、ほとんど絶望に近い感覚だ。彼が喧嘩になった時、彩名を見ていた視線が何なのか分からず気になっていたが、今から思うとあれは、
「憐みの視線」
 だったに違いない。
 信二は、彩名に対して、ほとんど無表情だ。しかし、その中で、絶えず何かを訴えてくるものがあった。それは何なのか分からないのは不安だったが、下手に表情を浮かべられて、気持ちが動いた瞬間に、他の誰かから鬱状態を移されるというのも、溜まったものではない。
――信二は、私が鬱になるということを知っていて、しかも、鬱状態が伝染によるものということを分かっていて、さらに私を鬱から救おうとしてくれているのかしら?
 と考えた。
 信二がまるで、「救世主」のように思えてきた。
作品名:絶妙のタイミング 作家名:森本晃次