絶妙のタイミング
「伝染するというと、どうしても悪いイメージしかないんだけど、本当に悪いことだけしか伝染しないのかしら?」
「私もそれは考えたことがあった。いいことも伝染するかも知れないんだけど、それは伝染元の人にとってはいいことなのかも知れない。でも、伝染先の人は、たいていの場合、悪いことなんじゃないかって思うの。だから、『伝染は、悪いことにしか起こらない』というのが、私の持論なの」
と、香織はそう答えた。
彩名は少し考え込んだ。
それまでの香織の意見には、ほとんどが賛成で承服できた。だが、伝染に関して、
「悪いことばかり」
という意見には、少々不満が残る。自分に納得がいかないのだ。
――理屈は分かっているのだが、自分が納得できないのであれば、それは賛成とは言わない――
というのが彩名の考えである。
「鬱病」
という言葉があるが、鬱を病気として見るかどうかは別にして、伝染するものであるから、「病」という言葉がついているのかも知れない。そう思えば、表に出る鬱が伝染するものであるとしても、納得できないわけではない。ただ、それは、
「信じられる、信じられない」
という理屈を抜きにすれば、納得できるということである。
彩名は、香織と話をしていると、
――この人とは、本当に以前に会ったことがなかったのだろうか?
と思わずにはいられなくなる。
もちろん、こんな難しい話をしたというわけではないが、以前知っていた人も彩名を引き付ける何かを持っていた。自分に対して、納得できないと記憶に残らない人がいるとすれば、それは香織に似た人だったのかも知れない……。
第三章 欠落した記憶
信二と再会してからの彩名は自分でも、
――少し変わったかも知れない――
と思うようになった。
香織を意識し始めたのもそのせいだし、毎日の「色」が変わってきた気がした。
信二との再会は明らかに偶然なのに、
「偶然なんかじゃない」
と、信二は言いきる。
「じゃあ、偶然じゃないなら、その根拠を見せて」
というと、
「根拠なんかない。僕が偶然じゃないというんだから、偶然じゃないんだ」
と、力技で押そうとする。それはまるで小学生が喧嘩の時の、
――言い訳にならない言い訳――
のようだった。
だが、彩名も信二の顔を見ていると、その真剣な表情に、
――まんざらウソとも限らないのかも知れない――
と思った。
最初から彩名を探していて、偶然を装ったにしては、再会した時の喜びは、あそこまで激しくはないだろう。いかにも大げさな驚き方で、今にも抱き付いてきそうな勢いに、圧倒されたというよりも、
――自分も彼が現れるのを待っていたのかも知れないわ――
と、ありもしない錯覚を覚えた気がした。
彩名は、子供の頃、信二を誤解していた。それが本当に誤解だったのかどうか、知りたいと思った。しかし、中学生の頃にそれぞれ違う人生を歩き始めたことを自覚した彩名は、中学の時の信二とは、もう二度と会えないことが残念でならなかった。もし、一緒に高校時代を迎えたとしても、そこから二人はそれぞれ違った人生を歩むと思っていた彩名は、信二と離れたのも必然だと感じ、中学時代最後の卒業式の後、信二の気持ちを確かめたいという思いに駆られていた。
裏では、
――どうせ離れるのに、今さらそれが分かってどうするっていうの? もし、彼が自分のことを好きになってくれていなければ、もうリベンジのチャンスはないんだから――
という思いを抱いていたの違いない。
――信二と会いたい――
という思いは、最初、子供の頃に抱いた誤解が何だったのかを知りたいだけだったのだと思っていたが、実際に出会ってみると、そんなことはどうでもよくなった。
明らかに子供の頃の信二とは違っていて、彩名の前ではどうしても素直になれなかった子供時代の信二とは、まるで別人のようだった。
あの頃はお互いに思春期。大人になりたいという思いが強かった頃だと思っていた。
そういえば、中学時代の信二が、
「僕は大人に何かなりたくないな」
と言っていたのを思い出した。
「どうしてなの?」
「だってそうじゃないか。自分たちの勝手な理屈で迷惑したり、被害を被ったりするのは、いつも子供だからね」
彩名には信二の気持ちは分からなくもなかった。大人に対しての恨みから、自分が大人になりたくないという気持ちもよく分かる。
しかしだからといって、自分が大人になりたくないという発想とは少し違っているように思う。
同じ大人になりたくないと思う気持ちがあっても、その頭に違う言葉がつけば、ニュアンスも違ってくるだろう。
「自分が嫌いな大人にはなりたくない」
つまり、大人すべてを否定するのではなく、自分が生理的に受け付けない大人だけを毛嫌いすればいい。
彩名は、
――もう少し、ほんの少しだけでも、発想を一つ先に進めれば、きっと違った自分を夢見ることができる――
と、感じていた。
それが、実は今の彩名を支えていて、その思いを与えてくれた信二に、再度会いたいと思ったとしても、無理もないことだ。
彩名は、それまで男性というものを軽く見ていた。自分が理想とする男性からは、程遠い人しか自分のまわりにはいなかった。
――どうして私のまわりにだけ、ひどい男性ばかりが集まるのかしら?
と思っていたが、実際は、彩名の理想が高いだけで、彩名が自分の好きなタイプのランクを下げない限り、彩名が好きになる男性は現れることはなかった。
それでも、寂しさからか、自らの「禁」を破るかのように、理想のランクを下げて見たことがあった。ほんの少しでもランクを下げれば、結構自分のまわりには合格点が挙げられる男性はいた。
その中から一人の男性と知り合い、付き合ってみたが、すぐに別れることになった。原因は彩名の方にあり、彩名が離れたわけではなく、相手が彩名に見切りをつけたのだ。
「君はどうして、そんなに上から目線なんだ。俺の方が上だとは言わない。せめて対等であれば、お互いをもっと分かり合えたのに」
と、彼はいうと、彩名は何も言えなくなってしまった。
「何言ってるの。私だって、理想のランクを下げたのよ。それなのに、どうしてあなたから罵声を浴びなきゃならないの?」
と、喉まで出かかった言葉があったが、口にすることはできなかった。その分、目で睨みつけてやった。
すると、相手の男は、
「その目だよ。その目。君は一体自分がどういう人間だって思っているんだ? 相手を蔑むような目をするのはやめるんだな」
と、言葉にするのを必死で堪えているのに、目を攻撃してくる。
「卑怯だわ」
「卑怯? 何が卑怯だっていうんだ?」
「あなた、最初から私のことをそんな風に思っていたんでしょう? だったら、最初からそう言えばいいのよ」