絶妙のタイミング
「そう、待っている方が相当辛いと思うわ。でも、それ以前に、男性はきっと、女性二人から迫られた時に、すでに結論は出ていたと思うの。でも、答えを出しきれないのは、未練というよりも、自分をいかに納得させられるかということが重要だったんじゃないかしら」
そう言われて、信二は、ハッと思った。
そのリアクションを見て彩名は、
――この人にも、同じような経験があるのかも知れないわね――
と、感じた。
もちろん、シチュエーションも立場も違っているのだろうが、何かを決めなければいけないという時、特にたくさんの中から一つを選ぶという時よりも、二つの中から一つを選ぶ方が、どれほど辛いかということを分かっているからなのかも知れない。
たくさんの中から一つを選ぶのは確率的に厳しい。それだけに、ある程度の諦めの気持ちが漂っている。そう思うと、二者択一というものがどれほど難しいか、考えれば分かることだった。
――逃げの気持ちは許されない。つまり、絶えず前を向いていなければいけない――
そう思うからだった。
「その先輩はどうなったの?」
「二人のうちの一人を選んで、円満に行っているということだよ。フラれた方の彼女も、最初はショックだったようだけど、すぐに他の男性を好きになって、うまくいっているみたい。それはきっと、先輩が逃げずに一つの結論を見出したからに違いないね」
「それなら、よかった」
「先輩は、それから小説を書くようになったんだけど、恋愛に関しては、結構的を得ているようで、アマチュアではあるんだけど、ネットでの順位はそこそこだが、その時の選択が、先輩の才能を開花させたのかも知れないな」
「アマチュアでも、小説を書けるなんてすごいですね」
「『真実は小説よりも奇なり』という言葉があるんだけど、その言葉を意識していないと、小説は書けないっていう話だぜ」
「どういうこと?」
「確かに、『真実は小説よりも奇なり』という言葉は、その通りだと思うんだけど、それを無視していては、逃げていることになるでしょう?」
「でも、そればかりを意識していては、前にも進まないわよね」
「そうなんだ。だから、意識はするけど、その言葉を素直に認める気持ちも持っていないといけない。そのまま認めてしまうと前に進めなくなるから、認めた上で、いかにその言葉に近づけるかということを、意識し続けなければいけないんだ」
「永遠のテーマなんですね」
「僕はその話を聞いた時、人間って、何かを悩んだ時、すでに答えは出ているものなんだって思ったんだ。でも、それを認めたくないもう一人の自分がいる。要するに、捨てきれない自分だよね。その自分との葛藤が心が決まった上で行われる。それって、本人にとって、矛盾したことになる。でも、その壁を超えなければ、一つのことを選ぶことができない。選択って、それだけ難しいことなんだって思うよ」
「自分の中で、迫られた選択を、それほど意識せずにこなせるようになったら、何でもできてしまう気がするわね」
「いや、そんなことはないさ。意識せずにこなせるほど、単純なものではないし、何でもできてしまうと思うほど、人間は自分におこがましくできてはいないだろうからね」
信二の話は何となく分かった。
「でも、ある意味、時間がもったいない気がするわ。最初から結論が決まっているのなら、本人も、まわりも悩まずに済むんだから、さっさと結論を決めてあげれば、皆楽になれるんじゃないかしら?」
「そうでもないさ。人には、誰でも通らなければならない道というのがあると思うんだ。これはそのための大切な道の一つなんじゃないかって思うんだ」
「それぞれの当事者は、自分だけのことで精一杯なんだろうけど、こうやって他人事として話を聞いている方も、どちらの気持ちも分かる気がするので、結構精神的に重い気分にさせられる気がするわ」
「重たい気分にはなるだろうけど、暗く鬱な状態にはならないだろう?」
「そんな気持ちはないわ。でも、身体の普段使っていない筋肉にも力が入ってしまうようで、他人事なのに、どうしてなのかしらって感じるわ」
「他人事だから、余計に感じるんだよ。自分のことだったら。自分と、そのすぐまわりしか見えないものさ。自分の顔は鏡に通さないと見えないだろう?」
「ええ、確かにそう。でも、声はどうなのかしら? 私は自分の発する声を感じているけど、録音した自分の声を聞くと、まったく違って聞こえるのよ。まわりの人に私の声がどう聞こえているのかというのも興味があるわ」
「きっと、テープの声なんだろうね。自分とテープの声には違和感があっても、他の人の声と、テープの声にほとんど差はないからね。もしあったとすれば、相手の番号が出ないタイプの電話があれば、電話だけで相手を特定することが不可能になってしまうからね。彩名は、自分の声を録音して聞いたことがあったんだね?」
「ええ、中学の時、放送部にインタビューされた時、マイクから洩れてくる自分の声が、普段と違っていることに疑問を感じたので、聞かせてもらったの。そしたら、私の声が、本当は結構高かったんだって思うようになって、意外だったわ」
「彩名は、それで、嬉しかった? それともガッカリした?」
「私はガッカリだったわ。本当の声というのが、こんなにも鼻に掛かったような声だったなんて、まるでもう一人の自分に対して、劣等感を抱いているようだったわ」
「劣等感?」
「ええ、嫌いな声なので、そんな自分にどうして劣等感を抱かなければいけないのかということに対してジレンマが生まれるの。自分の中に、本当にもう一人の自分がいるのだと思うと、気持ち悪くもなるし、たまにもう一人の自分が出てくる夢を見るんだけど、それが怖くて仕方がないの」
彩名は、信二の前では饒舌になれる。それはきっとお互いに言いたいことを相手が理解し、聞きたい答えを的確に返してくれるからに相違ない。少なくとも、彩名にとって信二は子供の頃からそんな存在だった。尊敬に近い感情が、信二に対してあったに違いない。
信二は彩名を、まるで妹のように思っていた。甘えてくる彩名に対し、
「ヨシヨシ」
と、頭を撫でてあげたいような気分になっていた。
子供の頃は、そこに子供なりの優越感があったのだが、相手が示す優越感に対して敏感なはずの彩名が意識していなかったのは、それだけ信二がいつも彩名に気を遣っていたことと、妹のような目で見られていることを彩名が看破していたからに違いない。
彩名と信二は、小学校の頃から中学卒業まで一緒だった。小学生の頃はお互いに意識することはなかったが、中学一年生になって、信二の方が彩名を意識し始めたのだ。
ちょうどその時、信二の両親に離婚問題が発生していたようで、子供の信二にはどうすることもできない。そして、離婚が決定的になった時、両親から、
「お父さん、お母さんのどちらと一緒に暮らしたいか、選びなさい」
という、中学に入学したばかりの信二に選択させたのだ。
最初は母親を考えていたらしいが、最終的には父親が引き取ることになった。母親では経済的に引き取ることはできなかったからだ。なぜなら、二人の離婚の原因が母親の不貞にあったからだということである。