絶妙のタイミング
また、その時になると、今度は他の人には分かることであっても、彩名には分からないことも出てくるのではないかという思いがあった。そういう意味では、隼人という男性を見ていると、
――二重人格なのではないか?
と思うようになってくるのだった。
彩名が、隼人に感じていることを、もし、次郎が彩名に感じていたとすればどうだろう?
彩名は隼人に対して確かに優位性を抱いているが、絶対的なものではない。だが、次郎が自分に対しての優位性は、
――次郎は、絶対だと思っているに違いない――
という思いがある。それでも離れられない自分が、じれったくもあり、金縛りに遭ってしまったかのようになっていることに違和感を感じるのだ。
隼人も、彩名に対して、似たような違和感を感じているとすれば、
――誤解を解いてやりたい――
と思う。
確かに、彼をストレス解消に選んでおきながら、
――誤解を解いてやりたい――
などという気持ちはおこがましくも、厚かましいと言えるのではないだろうか。
彩名の側からしか考えていなかったが、そのうちに、次郎と隼人の関係が分かってくると、彩名の考えも少し変わってくる。それも、そう遠くない話だった。
隼人が次郎のことをどう思っているかというのは、表から見ているだけでは図り知ることはできなかったが、次郎が隼人のことをどう見ているかというのは、一目瞭然だった。
――次郎は、隼人さんを恐れている――
まるでヘビに睨まれたカエルのように、隼人の前に現れた次郎は、何もできないでいる。しかし、隼人は次郎のことをよく分かっていないようだったが、逆に次郎には、隼人のことがよく分かっているようだった。
それは、彩名を含めたところでの「三すくみ」の関係のようではないか。
じゃんけんのようでもあり、ヘビにカエルにナメクジに、という関係は、まさしく「三すくみ」の関係だ。
だが、ただの三すくみではなく、圧倒的な優位性を持っている方は、相手の気持ちや立場をまったく分かっておらず、逆に圧倒されている方には、相手の気持ちが分かるというもの。これは一体どういうことなのだろう?
隼人と次郎がいつ頃知り合ったのか分からないが、三すくみを考えてみると、彩名との出会いは必然だったのかも知れない。
彩名は、自分のことを最初はまったく分からなかったが、次郎と知り合ってから、分かるようになってきた。
それは、
――自分に似ている相手と出会うことになる――
と、思い始めた時、まだ見ぬ次郎の輪郭が、おぼろげに見えてきたのを感じると、彩名は、
――その人のことを分かるのは自分しかいない――
と思うようになった。
「自分のことほど、意外と一番分からないものだ」
という言葉にもあるように、自分が一番の盲点でもある。自分の顔は鏡などの媒体を通してしか見ることができないので、一番分かりずらいとか、実際の声と自分で意識している声とでは、同じ自分の声であっても、まったく違っていたりするものだという考えによく似ている。
そんな自分に似た相手が目の前にいれば、自分の中だと見えにくいものでも、その人を介することで分かってくるのではないかと思うようになると、その人のことが手に取るように分かるというのも無理のないことだ。
だが、それでも自分のことは相変わらず分からない。彼を通して見れば、よく分かるはずだと思っていたのに、当てが外れた気分だ。
そうなると、彩名の中にストレスが残るようになった。最初は、さほど高圧的ではなかったはずの次郎が、高圧的な態度に出たのは、彼の元々の性格もあるのかも知れないが、彩名のことをよく分かっていないと思っていた次郎が彩名を見て感じることは、ストレスを溜めていたり、次郎を観察しようとしている態度に苛立ちを覚え、それが高圧的な態度になって現れる。
彩名は、次郎がそんな性格の人ではないと思っていただけに怖くなってくる。その時点で、二人の間の優劣は決定してしまったのだ。
彩名には次郎のことが手に取るように分かるだけに、一度相手に感じてしまった劣等感を拭い去ることはできなかった。逆に彩名のことを分かっていないだけに、次郎の方は、彩名に絶対的な優越感を感じることができるのだろう。
それはまるで、
――怖いものしらず――
と言ったところであろうか。
考えてみれば、怖いものしらずというものが、どれほど怖いものかということを、今までに一番感じたことがあったのは、彩名なのではないだろうか。
怖いものというのが、彩名にとって何なのかということを自分で分かっていたからだ。彩名が怖いもの。それは、自分の記憶が欠落していることで感じた、
――言い知れぬ不安――
だった。
未来に対しての不安は、過去に不安のない人には、想像もつかないかも知れない。ただ、誰もが大なり小なり、過去に不安を持っていることだろう。だが、それでも自分の過去が分からない人に比べれば、幾分かマシだというものである。
「過去に残して来た不安ほど、怖いものはない」
と、思っている彩名だったが、それは、他人のこととなると、逆だということにも気が付いた。
相手のことが分かってしまうと、次第に怖く感じてくるものだ。それは、
――自分は、分かっているつもりでいるけど、本当にその人のことを全部分かっているのだろうか?
という不安に駆られる。ある程度のことを分かっていれば、それ以上、知る必要もないのに、そこまで分かってしまうと、完璧に知ることを望む。そうしないと、いつまでも交わることのない平行線をイメージしてしまい、どこまで行っても、相手のことをどこまで分かっているのかという不安に駆られたまま、続いていくように思えてならないからだ。
――この人とは、きっと腐れ縁になってしまうに違いない――
と、最初はそう感じただけだが、平行線を一度感じてしまうと、腐れ縁が、劣等感を持ったまま続いていきことを意味していると感じると、彩名には、それ以上どうすることもできないと感じるのだ。
どうしてそこまで分かるのかというと、隼人と知り合ったからである。
隼人に対して持ってしまった絶対的な優越感。この時も最初はそんなつもりもなかったのに、隼人が、劣等感丸出しの目で、自分を意識することで、彩名の中に隠れているサディスティックな部分が表に出てきた。
――次郎に対して、自分はマゾになっていたというのかしら?
そんなつもりは毛頭ない。相手の気持ちが分かるだけに、ヘビに睨まれたカエルのように動けなくなっていただけだ。そのまま膠着状態が続き、
――こちらが先に動けば、一巻の終わりだ――
という恐怖を感じながら、時間だけが過ぎていく状況を、想像しているだけでも、想像を絶するような苦痛であった。
膠着状態が続く中で、過ぎていく時間をどう過ごせば、いかに辛くなくなるかということを、彩名は考えていた。
一つは、
――いかに自分を客観的に感じることができるか――
という思いがあった。
もう一つは、
――自分の中に何か後ろめたさを探そうと努力している自分に気が付いた――
ということである。