詩集 言の葉のたから箱【紡ぎ詩Ⅴ】
初めて古書を入手したのは数年前である。古書店に足を運ぶ形ではなく、今までもよく利用するアマゾンでの利用だ。古書でも状態によってグレードがあるらしい。「非常に良い」、「良い」、「可」。業界においてのほぼ共通した等級というかグレード分けはあるのだろうが、複数の古書店で購入してみると、店によってかなり分類の基準も違うことが判る。「良い」でも、「可」程度のところもあるし、逆に「可」でも「良い」の間違いではないかと首を傾げたくなるところもあった。
当然ながら、「可」で「良い」の本が来ればしめたものだし、「良い」状態を買ったはずなのに「可」が届けば落胆もするし、損をしたような気分になる。
ちなみに、ご存じかもしれないが、「可」というのは通読するには支障はないが、ページに書き込みや汚れがある程度、「良い」は古本としての経年劣化はあるものの、書き込みなどない比較的綺麗な状態を指す。
笑われるのを承知で告白するが、古書を買い始めの時期はセージ(ハーブの一種、強い浄化力があるとされている)の乾燥葉を焚いて、本にその煙を当てたりしていた。できるだけ前の持ち主の念を除去したいからだ。だが、そんなことをしていたのはせいぜいが初めの数ヶ月にすぎない。面倒だし、今は古書が届いても浄化などせずに読んでいる。
一週間ほど前、アマゾンで買った古書が届いた。アマゾンに出店しているマーケットプレイスの商品である。節約のためには「可」の本を選べば良いのだけれど、正直、あまりに傷んだ本、見るからに古本は読む気がしない。
なので、「非常に良い」で、購入者評価も良く値段も良心的なところを選んだ。
発送も早く、数日で届いた。手にした現物は商品説明通り、とても良い状態だった。たぶん、プロの業者ではなく個人的な蔵書処分として売ったのではと思われ、説明にも「一度読んだだけです」と添えられていた。
確かに綺麗だ。たまに「非常に良い」でも、「良い」どころか「可」程度なのではと思えるほど状態の良くない本が届くこともある。他の購入者が「良い販売者だ」と口をそろえて褒めていたが、私も同意見だった。
内容も砂漠を舞台にしたロマンスもので、とても面白いせいか、すらすらと読める。かなり分厚い本なのに、もう半分以上は進んだ。
だが、気持ちよく読めるのは作品の面白さだけではないと思う。新品同様の書き込み どころか、ページのわずかな折れさえもない美しい本だからなのは間違いない。前の持ち主ー恐らく販売者自身が大切に読んだということが伝わってくる。
自分自身が小説を書き、手作りの本を作り、また出版社から本を出した経験もあるせいか、 私は本に対する愛着は強い。本を大切に扱うことは作者だけでなく、本を作るという行為すべてに携わった人に敬意を払うことでもある。
むろん本だけではない、どんな製品にせよ、できあがるまでには気の遠くなるような多くの人々の労力が費やされている。物を大切にするのは、製品が自分の許に届くまでの、そういった顔も知らない人たちの手間暇に思いをいたすことでもあるだろう。
だから、裏腹に本に無闇に書き込みをしたり、ぞんざいに扱う人には腹立たしい思いを抱くのも事実である。
古書として入手した本は、大方は転売する。先の迷信がらみではないが、やはり他の方の手から手へと渡ってきた本は自分のところに長らくとどめて置くつもりはない。例外としては、なかなか新刊としてはもう手に入らない希少本などは手元に残しておく。それ以外はすべてまとまった量になった時点で古本業者に売る。
知り合いに「本を売るのはナンセンス」と主張する人がいるけれど、そうは思わない。転売するのは他人が読んできた本だからというだけが理由ではない。
やはり、本にとってはより多くの人に読んで貰った方が幸せだと考えるからだ。これも自分が小説を書くからこそだろう。苦労して書き上げた愛着ある作品なら、一人でも多くの人の眼に触れさせたい。苦労して作り上げた本であれば尚更だ。
ー本は大切に、より多くの人の手にとって貰う機会を。
これが私のモットーである。
前の持ち主が大切にしていた今の本、私もまた大切に読んでいる。こうして大切に読み、また次の人が同じように大切に読んでくれれば、本は本来の価値を失わず、いつまでも大切にたくさんの人に読み継がれてゆくに違いない。まさに、それこそが本がこの世に生まれてきた意味であり、本を作った、たくさんの人々の願いであるだろう。
☆「友人を見送るように~今年の白木蓮~」
今年もまた大好きな花の季節が巡ってきた
純白の花びらを幾重にも重ねた ふんわりとした大輪の花たち
ー白木蓮ー
今年は暖冬のせいか
一週間前に蕾みが膨らみ始めたかと思うと
すぐに花開いた
そして既にもう 盛りを過ぎて散り始めている
花が美しく咲き誇るのは
一年の中でたった数日に過ぎない
なのに花たちは
何故 ああも精一杯咲こうとするのか
花ひらく ひと刹那のために長い冬を耐えて過ごし
誰が見ていなくても季(とき)を知り
花ひらき やずて人知れず散る
花の潔さが昔から好きだ
毎日 庭に出て花を眺めつつ
心の中で長年の盟友にも似た大切な存在に呼びかける
ー来年もあなたに逢えるのを愉しみにしているよ。
ふと見上げた空は抜けるような蒼に染まり
春の訪れを告げているようだ
蒼穹を背景に眩しいほど白い花たちが
くっきりとその色を際立たせていた
自らの生き方に誇りを持った生涯をまっとうしようとするかのように
☆「繋がれてゆく生命」
我が家の目と鼻の先に桜がある。庭といえないこともないが、正しくいえば、我が家の寺の前のささやかな空き地に植わっているのだ。そこに桜が植えられたのはかれこれ二十四年も昔になる。当時、うちの寺で会館新築が始まり、長年、庭にあった桜が伐採されることになった。できるだけ残しておきたかったのだけれど、桜のある場所が会館の玄関先と重なり、出入りに邪魔になるというので、切らざるを得なくなった。
その桜は父の妹ー叔母の生誕記念に祖父が植えたもので、実のところ、私は最後まで伐採には反対していた。しかし、檀家様やその他大勢の方に使って頂くことのできる会館を建てるという母(住職)の望みは強く、また、私も時の流れの前には致し方ないという諦めもあるにはあった。
桜は切り株だけを残して伐採された。長い冬を越えた翌年の春、何と無残にも切り株だけになった桜から小さな枝が出て蕾がついた。三月の終わり、小さな蕾は見事に花を咲かせたのだ。切り株だけになったから、もう邪魔にはならない。敢えて切り株まで除去しなくても良いのではという私の意見に今度は母も賛成してくれたが、檀家総代さんの意向で、桜は結局切り株ごと取り去られた。
寺の門前の桜は、別の総代さんが旅行先の植木市で苗を買って持ち帰り植えたものである。最初は無事に根付くかどうかさえ危ぶまれた小さな苗木だったのが、今では大樹と呼べるまでに成長した。苗を植えた当初、その総代さんが毎日、わざわざ水やりに来られていた姿が今もありありと思い出される。
作品名:詩集 言の葉のたから箱【紡ぎ詩Ⅴ】 作家名:東 めぐみ