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第四章 動乱の居城より

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幕間 雫の花束



 その日は母様の誕生日だった。
 だから僕は、朝食のあと、こっそり庭に抜け出して花を摘んだ。
 控えめで可愛らしい、純白のマーガレット。素朴な花は、母様にぴったりの贈り物だと思った。
 僕は、できるだけ綺麗な花を集めて、両手いっぱいの花束にした。五歳の僕の掌なんて、たいした大きさではなかったのだろうけれど、朝露を跳ね返す花々は輝いて見えた。
 僕は意気揚々と母様の部屋に向かった。
 母様はメイドたちの手によって、『絹の貴婦人』に仕立て上げられていた。たっぷりのドレープがあしらわれた、美しい絹地の豪奢なドレスは、今日のパーティのために誂(あつら)えられたものだ。
 小柄な母様には似合わない裾の長いデザイン。野暮ったさすら感じる前時代的なライン。
 それでも親族たちは、この伝統的な形式を守ろうとする。我が藤咲家が『絹の家』であることを、広く国中の貴族(シャトーア)たちに知らしめるために、当主の奥方の誕生日を口実に盛大なパーティを開く。それを、強要する。
 そして、毎度のように「前の奥様ならば、ドレスが霞むほどに美しかったでしょうに」と陰口を叩くのだ。
 正装した父様も、母様の部屋に来ていた。不安に震える母様の手を、そっと握っている。平民(バイスア)出身の母様にとって、貴族(シャトーア)のパーティなど責め苦にしかならない。
 ――勿論、そんなことはすべて、後に知ったことだ。
 五歳の僕は、今日はパーティで忙しいということしか分かっていなかった。だから、今しかない、と。
「母様! お誕生日おめでとう!」
 僕は花束を持って母様に駆け寄った。
 輝くマーガレットを目にした瞬間、母様が少女のように頬を染める。
「素敵……! ありがとう!」
 母様は、両手で大切そうに花束を受け取った。白く朝日を跳ね返す花びらが、彼女の顔を明るく照らす。
 隣に立っていた父様が、花束の中から、ひときわ大きな一輪を抜き取った。そして、それを母様の髪に挿す。借り着に身を包まれたように、ぎこちなかった母様の姿が、一気に華やいだ。
「君に、よく似合うよ。綺麗だ」
「え、ええ? そ、そうかしら?」
 照れて慌てふためく母様は、子供の僕から見ても可愛らしかった。今から考えれば、母様は当時まだ二十歳半ば過ぎだったのだから、当然といえば当然だった。
 そんな母様の前に、年配のメイド頭がすっと割って入る。
「旦那様、奥様。髪飾りはこちらのものを既にご用意しております」
「あ……」
 母様がうつむく。
「それは、この前、陛下から賜ったものだね……」
 父様が呟く。
 貴族(シャトーア)を飾るものは、野の花ではなく、輝石の付いた宝飾品でなければならない。
 と、そのとき、後ろに控えていた若いメイドが悲鳴を上げた。
「ハ、ハオリュウ様!」
 彼女は僕の足元を指差していた。
 僕の足は、母様の長いドレスの裾を踏んでいた。僕の靴は、朝露で柔らかくなった庭の土を踏みしめ、泥だらけになっていた。
 蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
 メイドたちは慌てふためき、父様と母様は、おろおろするばかり。
 そんな中、あろうことか親族の中でも一番口うるさい大叔父が到着し、なんの騒ぎだと乗り込んできた。
「この、平民(バイスア)が!」
 状況を理解した大叔父が、手を振り上げた。僕にはそれが見えていた。だけど、怖くて動くことができなかった。
 ぶんと、空気が震える気配。
 ――そのとき、僕の目の前を風がよぎった。
 人間の肉を叩く音が、高く鳴り響く。
 軽やかな絹のショールが、まるで妖精の羽のように、ふわりと広がり、飛んでいった。
 ――――!
 その場にいたすべての者が凍りついた。
「ね、姉様――!」
 床に倒れ込んだ姉様の頬は真っ赤に腫れあがり、瞳は涙で光っていた。姉様は脅えた目で大叔父を見上げていた。けれど、僕が駆け寄ると、僕を大叔父から庇うように背中に隠した。
 大叔父は、自分は悪くないと、わめき散らした。躾がなってないと、父様と母様をなじり、これだから平民(バイスア)は、と貶める。父様と母様は萎縮し、恐縮して、嵐が過ぎるのを黙って耐えていた。――当主は父様なのに。
 貴族(シャトーア)の品位を疑われるようなことは避けるように、などという、二、三の捨て台詞を残し、大叔父は去った。父様は姉様のために医師を呼びつけ、母様とメイドたちはドレスをなんとかするべく奔走した。
 僕は泣いていた。「ごめんなさい」を繰り返し言いながら、泣きじゃくっていた。誰に対して「ごめんなさい」なのかは分からない。でも、とにかく謝らなくてはいけないという思いでいっぱいだった。
「ハオリュウ」
 不意に、柔らかな感触に、ぎゅっと包まれた。
「ハオリュウは優しい子ね」
 鈴を振るような透き通った声。姉様だ。
「ハオリュウはお母様のために一生懸命だった。偉いのよ」
 どうして、姉様は僕を褒めるのだろう?
 一瞬、涙が止まり、僕は姉様を見上げる。
「誰よりも先に、お母様にプレゼントを渡したかったんでしょう? ハオリュウは、とっても頑張ったの」
「姉様……」
 胸が苦しくなった。
 再び、僕の瞳に涙が盛り上がり、溢れ出した。僕の心の中から噴き出るような涙は、堰を切ったように、あとからあとから流れてきた。
 僕は、声もなく泣き続けた。
 僕はちゃんと知っていた。今日は忙しい日だって。
 朝ごはんを食べたら、パーティの衣装に着替えなければいけなかった。メイドたちが僕を探していた。
 でも、僕はこっそり庭に抜け出した。
 だって、もたもたしていたら、誰かに一番乗りを取られてしまうから。
「ハオリュウ、泣かないで。ハオリュウは優しい子。大好きよ」
 どう取り繕ったって、悪いのは僕だった。大叔父に殴り飛ばされるほどの悪事だったとは思わないけれど、僕のしたことは褒められることではなかった。
 なのに姉様は、僕を褒めるのだ。僕の幼い気持ちを認めてくれるのだ。
 優しいのは姉様のほうだ。
 僕の涙は止まらない。
 とても苦しかった。
 そして、とても愛しかった。


 やがて僕は、僕と姉様の関係が、決して優しいものではないことを知る。
 血統からいえば、家督を継ぐにふさわしいのは姉様のほうだ。けれど、世継ぎは原則として男子であるから、僕が跡取りとなる。
 自分の息子を姉様の婿とし、実権を握りたがった親族たちに、僕は疎まれた。命の危険を感じたことも、一度や二度ではない。
 僕は生まれてくるべきではなかったのだ。
 父は、無邪気な子供が、そのまま大人になったような男だ。穏やかで、争いごとが嫌いで、いつまでも夢見がちな少年だった。善良であることに間違いはないけれど、その優しさが残酷な我儘であることに気づかなかった。
 平民(バイスア)の母のことなど、相手にすべきではなかったのだ。せめて妻として迎えずに愛人としておけば、彼女はささやかな幸せを手にしただろう。
 まったくもって、父は当主に向かない男だった。
 当主なんてものは、愛してもいない人と幸せを装うか、愛する人を幸せにできないかのどちらかなのだ。そのどちらもやった父を見て、僕はそう思う。
 …………。
作品名:第四章 動乱の居城より 作家名:NaN