第四章 動乱の居城より
3.居城に集いし者たち−2
天まで届くかのような、高い煉瓦の外壁。その硬い質感を右手に見続けていたら、薄紅色の吹雪に見舞われた。
エルファンは、ほんの一瞬だけ夢幻の世界に心を奪われる。
庭の桜だ。
この城壁より更に空高く舞い上がり、花びらが彼を出迎えてくれたのだ。一週間ほど前に屋敷を発ったときには、まだ五分咲き程度であったのが今や満開なのであろう。
彼は、父親のイーレオそっくりな美貌を少しだけ綻ばせた。
よく似た父子の彼らは、兄弟に見える。洒落者のイーレオと違って、実利主義のエルファンは髪を染めたりはしないので、頭に白いものがちらつくエルファンのほうが『兄』だ。本当の異母兄弟(きょうだい)であるルイフォンに至っては似てない親子にしか見えないが、これは年齢差からいって仕方ないだろう。
美しい花の舞に、皺を寄せていた眉間の皮がすっと伸びる。渋さの滲む影が消えると、彼は、わずかながらの若返りを果たした。
だがそれも、鉄門が見えるまで。
否、それよりも前に、おびただしい数の警察隊の車が門へと続く道を無粋に遮っているのを発見して、エルファンは再び眉間に皺を寄せた。
実のところ、反対側の道から門に向かっていれば、ハオリュウのように支障なく門まで到着したのであるが、これは結果でしかない。
「すみませんが、これでは前に進めません……」
運転席の男が、脅えた表情でエルファンを振り返った。彼は空港でエルファン父子を拘束し、尋問していた取調官なのだが、気付いたら彼のほうが尋問されていた。
「仕方ない。ここからは歩いて行く」
低く魅力的な、だが感情の読み取れない声に、取調官はエルファンの怒りの幻影を見たらしい。「ひぃっ」と声を漏らすと、壊れた人形のように謝罪を繰り返した。
エルファンが車を降りると、取調官は逃げ去るように車を急発進させる。そこまで必死になることもないだろうに、とエルファンが深い息を吐いているうちに、車はあっという間に見えなくなった。
彼は再び息を吐くと、今度は高い外壁を見上げる。久しぶりの我が家である。
……この中で、一族が警察隊に蹂躙されている。
彼の目尻が上がり、眉間に更に深い皺が寄った。ルイフォンの話では今のところ大きな被害は出ていないが、父イーレオが執務室で一個小隊を引き連れた指揮官と対峙しており、応接室では姪のミンウェイが狂犬に噛みつかれようとしている。
ともかく屋敷に入って、この目で状況を確認したいところだが、現状では門をくぐることすら容易ではなさそうだ。――門前にいる一個小隊ほどの警察隊員を見て、エルファンは三度目の溜め息をついた。
周囲の状況を確かめるため、エルファンは乱雑に止められた無数の車のひとつの影に隠れた。
門の前にいる男たちは警察隊の制服を着ていたが、その肩を怒らせた立ち姿から、明らかに凶賊(ダリジィン)の下手な変装だと知れる。
そして、それに対峙する少年は、渦中の貴族(シャトーア)の娘の異母弟だろう。
リュイセンたちを乗せた車は、まだ到着していないようだった。
空港を出たのはリュイセンのほうが先だったが、彼は貧民街付近に大きく迂回したので追い越す結果になったようだ。加えて、エルファンが乗っていたのは警察隊の車両であり、周りの車が道を譲ってくれたというのもある。
エルファンは――もう何度目か分からないが、眉間に皺を寄せた。
強行突破をせざるを得ないか。できれば、穏便な方法を採りたいのだが……。
遠目に見える様子から、少年と男たちは何やら言い争っているようであった。
貴族(シャトーア)の娘の事情についても、ルイフォンから聞いていた。大層な事件のように語っていたが、エルファンから見れば、実に馬鹿馬鹿しい話だった。
騙された貴族(シャトーア)の娘が鷹刀一族の屋敷を訪れ、人のいいイーレオが彼女を受け入れた。翌日、脅されている継母が「娘が誘拐された」と訴え、屋敷が警察隊に囲まれた。それだけのことである。
イーレオの自業自得。エルファンが昨日、留守にしていなかったら、何をしてでも娘は追い返していた。
しかし、父に対して怒りの感情は湧いてこない。矛盾としか思えないのだが、そこで娘を見捨てられない父のことをエルファンは敬愛していた。
「いえ。僕が探します」
突然、少年の毅然としたハスキーボイスが、エルファンの耳朶を打った。距離があるので彼らの会話は断片的にしか聞こえないが、まだ高さの残る声はよく響いた。
「僕が直接、凶賊(ダリジィン)の総帥という者に会いにいきます」
エルファンは耳を疑った。貴族(シャトーア)の、しかも子供が大華王国一の凶賊(ダリジィン)の総帥に会いたいなど、正気の沙汰ではない。
「難航することを考えて、身代金を持ってきたんです」
少年の声に続き、男たちが何やら騒ぎ出す。だいぶ混乱した状況のようだ。
そうこうしているうちに、少年は、近くに止めてあった黒光りする高級車の中に姿を消した。
エルファンは、もう少し詳しく様子を見ようと、車の影から影へ、そろそろと近づく。すると、「危険です」「おやめください」などといった懇願の声が、はっきりと聞こえてきた。
しばらくして、少年は再び車外に現れた。
彼のそばにいる三人の者は護衛だろう。主人を守るかのように両脇にふたり。残るひとりは重そうなアタッシュケースを持っている。
「行きましょう」
少年の声が高らかに響いた。
エルファンは額に皺を寄せ、渋面を作った。
少年の探している異母姉がどこにいるか、エルファンは知っている。このまま少し門前で待っていれば、あっさりと再会できるのだ。だが、彼女のそばには、リュイセンとルイフォンがいる。彼らが同じ車から出てきたとき、少年はふたりの若い凶賊(ダリジィン)が異母姉に悪事を働いたと思い込み、騒ぎを大きくするだろう。貴族(シャトーア)の権力は厄介だ。
どうしたものかと、エルファンが頭を悩ませている向こう側では、警察隊の服装をした男たちが恐慌をきたしていた。
「ま、まずは、中にいる連中と連絡を……」
しどろもどろに言葉を転がす男に、別の男の叫声が被る。
「だ、駄目っす。繋がりやせん!」
「な? 何がだ?」
「あの人に『八百屋』は来ねぇと報告しようとしてんですが、『電波が通じません』と……」
「なんだと!」
殺伐とした喧騒に、思索の海へと潜り込んでいたエルファンの意識が引き上げられた。男たちの滑稽なまでの慌てようを見て彼は軽く嗤い、そして思い出した。
ここは天才クラッカー〈猫(フェレース)〉が守っている鷹刀一族の屋敷。その敷地内で〈猫(フェレース)〉の許可のない電波は通じない。
「直接、報告に行け!」
「って言われても、この馬鹿でかい屋敷のどこにいるんすか!」
癇癪にも近い悲鳴が上がる。それを聞いて、エルファンにひとつの策が閃いた。
作品名:第四章 動乱の居城より 作家名:NaN