川はきらめく
三十代の家庭
岡島幸雄は午後の配達に走り回っていた。この季節になっても、動きまわる額には汗がにじむ。
三十九歳になる幸雄には、妻直子との間に中学生と小学生の二人の娘がいた。幸雄には兄弟がいないため、いずれは両親と暮らすことを考えていたが、今の賃貸マンションで二人の子どもを育てるのに手一杯の毎日を送っていた。
そんな時父の幸三が倒れた。直子は、母恵子と共に父の介護にあたることになった。隣町なので通うのもそう苦にはならないようで、直子は自分の家の家事とかけもちで介護を手伝う日々が続いた。子どもたちも女の子ということもあって、よく母親の手伝いをした。
幸雄はそんな自分の家族が誇らしかった。やがて幸三は天寿を全うし、直子の実家通いも終わってホッとした矢先のことだった。直子が頂き物の和菓子を届けがてら、恵子の様子を見に行った帰り道、近所の人に呼び止められた。そして、
「最近岡島さん、ちょっと様子がおかしいわよ」
と、小声で教えられた。しかし、今しがた会ってきた恵子には別に変った様子はなかった。
幸雄は夜、仕事から帰って妻からその話を聞き、父がいなくなり慣れないひとり暮らしで戸惑う母が哀れに思えた。しかし、だからと言って引き取って同居するにはこのマンションでは狭すぎる。
そして、思い切って実家を建て直して同居しようかと考え始めた。父の遺産を頭金に使えばローンも少なく抑えられるだろう。直子に話すと、いずれ母の面倒を看ることは納得してくれたので、あとは母の気持ち次第だった。
話はとんとん拍子に進んだ。
休日は、家族みんなで住宅展示場を見て回った。直子は当時流行し始めた対面式キッチンにこだわり、子どもたちも初めての自分の部屋に夢中になった。
契約も済ませ、そろそろ母の引っ越しの準備に取り掛かろうとした時だった。
夫婦そろって近所に建て替えの挨拶に回った先々で、恵子がたびたびゴミ出しの曜日を間違えているとか、履物が片方違う時があるとか、声をかけても知らぬふりをするなどの奇行がみられる、と教えられた。
そういえば父が亡くなった後、近所の人から様子がおかしいと心配されたことがあったことを思い出した。自分たちといる時はこれといって変わった様子は今までなかったのだが。
(でも、これだけ近所の人たちが口をそろえて言うのはおかしい、一度病院へ連れて行ってみよう、念のためだ)
早速、幸雄は母を近くの総合病院へ連れて行った。
母と二人の帰り道、実家の前を流れる川べりで、恵子が話し始めた。
「お前はこの川を見るのが好きで、いつもハラハラさせられたよ」
「…………」
「ちょっと姿が見えないと、川に落ちたんじゃないかって見に来たりしてね」
「…………」
「一度なんて、子どもの帽子が浮いているのを見て、父さんがもう少しで飛び込むところだったんだよ」
「かあさん、明日は引っ越しだから、今日はゆっくり休みなよ」
「あの帽子は、おまえのと同じだったから、私も生きた心地がしなかったよ」
「かあさん、家が建つまでは、狭いけどウチで我慢してくれな」
「父さんが飛び込む寸前に、おまえがひょっこり家から出て来た時は、もううれしくてうれしくて、おまえを思いっきり抱きしめて…… おまえはいたいいたいと言って……」
「かあさん、明日からはずっといっしょだからね」
その夜の岡島家はまるでお通夜のようだった。恵子はやはり認知症を患っていた。それもかなり進んでいた。それを伝えると誰もが黙り込んだ。どうして今まで気づいてやれなかったのだろう…… 離れて暮らしていたからだろうか。近所の人に言われるまでわからないなんて。もっと早く医者に診せていれば……
その時直子が重い口を開いた。今同居は無理ではないかと。来年は長女瑞奈の大切な高校受験が控えていたからだ。
父の時はかいがいしく世話をしてくれ、心から信頼していた妻直子が認知症の母の介護を拒んだ。幸雄は信じられない思いで直子を見つめた。自慢の妻がそんなことを言いだすとは到底受け入れられない。
「体のお世話ならなんとでもできるけど、認知症、それも進んでしまった状態での介護は……瑞奈が受験勉強どころではなくなってしまうわ……」
そんな妻の言葉に、裏切られた思いから、
「母を施設に入れろとでもいうのか!」
と幸雄は声を荒げてしまった。
その時だった。電話が鳴った、不吉な知らせの電話が――
人生最悪の日だった。
病院の帰り、なんでそのまま恵子をこちらに連れ帰らなかったのだろう、家族での話し合いのために一晩だけ、と思ったことが幸雄は悔やまれてならない。まさか、こんなことになるなんて……
母の家から出火し、家と共に母は亡くなった。湯を沸かそうとしてポットをガスコンロに乗せて火をつけてしまったらしい。
しかし、幸雄は母の死を悲しんでいるだけでは済まなかった。隣家に類焼して、その家のおばあさんに火傷を負わせてしまったからだ。
消防や警察に事情を聞かれ、隣家の親族とはお詫びと今後についての話し合いを持ち、くたくたになって家に戻ると、待っていたのは重苦しい空気に包まれた家族だった。
母の葬儀を済ませ、けがを負わせたおばあさんが退院するのを見届けると、直子は子どもたちを連れ、実家に帰って行った。