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川はきらめく

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七十代の孤独

 
 背筋を伸ばし、川沿いの道を歩く春田健吉は、今年七十八歳になる。しかし、かくしゃくとしたその身の動きは、歳より十歳は若く見えた。十年前に妻佳子を亡くしてから、亡き妻との思い出の詰まった家でのんびり余生を過ごしている。
 葬式の後、長男の和夫がこの家を引き払って一緒に住まないかと声をかけてくれた。でも、まだまだ体も元気で気ままな暮らしがしたかった健吉は、
「この家には、まだ母さんがいるような気がするからここにいるよ」
とやんわりその申し出を断った。
 しかし、十年も経つとさすがに足腰も弱ってきた。歳には勝てない、毎朝のウォーキングで鍛えた体も、近頃衰えを感じる。加えて最近、ひとりで食べる食事が味気なく、だんだんと耐えがたくなってきた。そんな時ふと、健吉は十年前の和夫の申し出を思い出した。そして、久しぶりに和夫の所を訪ねてみることにした。
 
 和夫は、電車で二つ先の駅近くのマンションに、妻波江と二人の息子の四人で暮らしていた。
 ちょうど十年前、和夫は三LDKのそのマンションを買った。健吉が同居する意思がないとわかったのも買うきっかけになったのだろう。それを思うと、今さら一緒に暮らしたいとは言いにくいが、聞いてみるだけでもという思いを抑えられなかった。
 
 日曜の午後、健吉の突然の訪問を和夫夫婦はそろって温かく迎えた。思えばあの時、自分と同居するということは妻波江の同意があったということだから、今時ありがたい嫁だということになる。
 さて、同居話をどう切り出そうかと思っていると、波江が息子たちの話をし始めた。
「お義父さん、雄介と智也ときたら、来年受験だというのに勉強に身が入らなくて困っているんですよ。
 雄介には浪人は許さないからと厳しく言ってありますし、智也にも公立高校に入らなければ大学はあきらめなさいとまで言っているんですけどね」
 ここで和夫が加わった。
「父さん、実を言うとここのところ会社の業績が悪くてね。当てにしていたボーナスも期待できなくなってしまってさ。このマンションのローンもあるし、波江にはパートに出てもらっているんだ。情けない話だよ」
 十年前とは明らかに状況が変わっていた。和夫にとって、今や子どもたちはお金がかかる歳になり、父親である健吉は手がかかる歳になっていたのだ。
 同居するならあの時だったのだ。あの時に家をリフォームしていれば、そんなに費用もかけないで皆で暮らせたはずだった。何より、同居は元気なうちにするものなのだ。
 
 お茶を飲み、頃合いを見て和夫の家を出た健吉は、まっすぐ家に帰る気になれなかった。そして、次男の隆志の所に寄ってみることにした。隆志は、妻美由紀とふたりで小さな町工場を営んでいる。
 成績がよく大卒で大手企業に就職した和夫と違い、勉強が苦手な隆志は高校卒業後、地元の小さな工場で働き始めた。
 そこでまじめに働き、仕事を覚え、十年ほど前に独立した。それは佳子が亡くなったちょうどあの頃だった。独立したばかりで昼も夜も働きづめだった隆志は、葬儀にも青白い顔をして参列していた。その後苦労のかいあって、工場も軌道に乗り、四十歳で美由紀と結婚して今年四十五歳になる。子どもはいないが明るさが取り柄の美由紀とふたり、仲良く工場を切り盛りしている。
 
 突然訪ねると、ふたりは仕事場で片づけをしていた。珍しい客を大喜びで迎え、美由紀は夕食の買い出しに出かけて行った。健吉は、二人の息子とそれぞれの嫁のやさしさに、自分は幸せ者だとしみじみ思った。これで妻が長生きしてくれていたら言うことないのだが……
 持ち前の美由紀の明るさで楽しい夕食だった。久しぶりに囲む食卓は、おいしくて何より温かい。こんな団欒こそ健吉が今一番求める場所だった。たまには訪ねてこよう、そう思うだけで楽しみができた気がする。
 すると、帰りがけに突然、隆志が驚く提案をした。
「親父、いっしょに暮さないか?」
 健吉は一瞬我が耳を疑った。予想だにしない言葉だったからだ。
「俺たちはふたりだけだから親父が来てくれればにぎやかになってうれしいしさ。狭いけど一部屋なら空いてるし。何より言い出したのは美由紀だから、あいつに遠慮はいらないよ」
 健吉は涙がこみ上げてくるのをぐっとこらえた。
 朝は、和夫に一緒に暮らしてくれないかと頼みに行くつもりで家を出たが、和夫の家は今そんな状況ではないと悟った。そして肩を落とした帰り道、ふと寄った隆志の所でこんなやさしい言葉をかけてもらうなんて。健吉が今何より欲しい言葉だった。思いもかけないことだった。
「考えてみるよ、なんて強がりを言える歳でもなくなったよ。ありがとう、よろしく頼む」
 そう返事をし、健吉は帰路についた。
 すっかり暗くなった川沿いの道を帰る健吉の心は明るかった。足取りも軽く、今日はいい一日だったとしみじみ思った。
 
 
 数日後、身の回りの整理の合い間に、今後の事を詰めようと健吉は和夫の所に向かった。いつものように工場の裏手に回ると、先客がいるらしく、和夫と客の会話が聞こえてきた。
「行くべきだよ、春田さん。
 突然の事でみんなも参っているが、こうなったらもう遅かれ早かれ田中重機からの発注は切られる。そうしたら春田さんの所もどうにもやっていけないでしょう? 
 こんな時に、中国の企業からの誘いは渡りに船じゃないですか! あなたの腕を見込んで、奥さんと二人住む所まで用意してくれるなんていう好条件、今時ないですよ。ほんとに春田さんが羨ましい。迷うことなんて……」
 健吉はそれ以上その場にいる事はできなかった。落胆は健吉を一気に老いさせ、今や見るからに老人になっていた。
 
作品名:川はきらめく 作家名:鏡湖