川はきらめく
四十路の再婚
穏やかな秋の夕暮れ、その川は、東京のはずれ千葉県との境をいつものように緩やかに流れていた。
夕日を反射してきらきら光る光景に、ふと、佐伯弘子は川のほとりで足を止めた。祖母から、昔この川は氾濫して大変だったという話をよく聞いたものだが、整備された今では想像もつかない。
弘子は迷っていた。
離婚して五年、今年で四十七歳になる。ひとり息子、渉は二十歳で大工の見習いをしている。弘子は息子との生活を支えるため、ヘルパーの資格を取り、この五年間ただひたすら働いてきた。
それが今年の春に新たに派遣された先の主、高橋洋介から昨日突然、結婚を申し込まれたのだ。
高橋家へは週に二度、洋介の母、幹子の世話に通っていた。そこでの仕事は他とは違い、楽しく心休まる時間だった。
幹子は穏やかで控えめな老女である。長年のリウマチで体が不自由となり、夫の死後は、ひとり息子の洋介がずっと幹子の世話をしてきた。
気づけば洋介は五十歳をとうに超えていた。
幹子はかねてから、自分のせいで息子が婚期を逃したのではないかと心を痛めてきた。そして、今からでも幸せになってほしい、ただそれだけを願っている。そのため、洋介がヘルパーの弘子に心を寄せていることを知り、弘子に最後の望みを託していた。幹子自身、弘子が好きだったし、息子の伴侶として申し分ないと思っていた。
弘子の離婚の原因は、夫に女ができたことだった。
夫はその女を選び、出て行った。そんな夫の後姿を見て、弘子は自分はもう二度と結婚などしないだろうと思った。当時まだ中学生で多感な年頃だった渉は、どんなに傷ついたことだろう。母の懸命に働く姿を見て、渉なりに乗り越えてきたに違いない。
(やっと落ち着いた日々を送れるようになった今、洋介さんとの話を持ち出したら、どんな波風が立つだろう? でも洋介さんもお母さんもとてもいい人だ。できるならこれからの人生、あの人たちと暮らしていきたい。渉だってもうじき自分の元を巣立っていく。そうすれば私は一人残されるのだ。ずっとひとりというのは淋しい。そうならずにすむ、これが最後の機会だろう)
数日考えた末、弘子は思い切って渉に打ち明けた。
すると、思いもよらぬ母の話に、渉は激しく動揺した。
「母さんはお人よしだ!
ヘルパーが家にいたら便利だから目をつけられただけじゃないか。父さんの時もそうだった。全部向こうの言いなりで。もっとごねて慰謝料をいっぱい取ってやればよかったんだ!」
ある程度覚悟はしていたが、まさかそこまで言われるとは思わなかった。言うだけ言って部屋を飛び出す息子の後姿を見つめながら、弘子はくじけそうになる自分に言い聞かせた。
(渉はまだ洋介さんに会ったわけではない。洋介さん親子の人柄は会えば必ず渉にもわかるはず。そして、あの子にとっても洋介さんはこの先、父親代わりとして良い相談相手になってくれるに違いない)
ここで諦めるわけにはいかなかった。
一方、とある病院に洋介はいた。そして、診察室から呆然とした表情で出てきた。たった今、医者から告げられた言葉はとても受け入れ難いものだった。
先週受けた健康診断でがんが見つかったと言われたのだ。それも末期で余命半年の宣告だった。まさか自分が母親より先に逝くなんて思ってもいなかった。弘子にも申し訳ない……
待合室の長椅子に座り会計を待つ間、洋介は自分の不運を嘆くのも忘れ、ただ、母と弘子の事を考えた。そして、家にたどり着く頃にはすっかり心は決まっていた。翌日から早速、いろいろと資料を集め、役所に相談に行き、すべての手配を整えた。
自分は、母親と共に自然に囲まれた地方の施設に入ることにした。残り少ない日々をホスピスで過ごし、自分亡き後の母親の面倒を看てくれる施設も見つけた。
母には自分の病気の深刻さを告げず、弘子には断られてしまったと話した。落胆する母を見て、洋介は最後の親孝行が出来なかったことをとても申し訳なく思った。
そして、弘子にも一切の事実を告げるつもりはない。知れば弘子のことだから、最後を看取ってくれると言ってくれるような気がしたからだ。
それだけはさせられない。こうなった以上、自分たち親子の事は忘れて幸せになってもらう、今の洋介が弘子にできることはもうそれしかなかった。
渉に打ち明けた翌日、弘子はヘルパーの事務所で、高橋家から突然、契約打ち切りの連絡が入ったことを知らされた。弘子はわけがわからず、事務所を飛び出すと、急いで高橋家へと向かった。
(いったい何があったのだろう?)
不安を抱えて駆けつけた家にもう洋介たちの姿はなかった。すでに転居した後だった。
主がいなくなりひっそりと建っているその家は、つい今朝までは、弘子の幸せな終の棲家になるはずだった。信じがたい思いを胸に、重い足取りでアパートに帰ると、机の上に息子の置き手紙があった。
『前から友達に誘われていた青年海外協力隊へ参加することにしたよ。僕の事は心配しないで母さんは幸せになってほしい。昨日は言い過ぎてごめん。
渉 』
手紙の前に呆然と立ちつくし、弘子は溢れる涙が止まらなかった。みんなみんないなくなってしまった。