ドロップス・レイン
雨が、降っている。
無数の光が細い尾を引きながら、あとからあとから落ちてくる。
将行は勉強机から顔を上げて背中を伸ばした。首を回すと、ぼきぼきと小気味よいほどの音が鳴る。目は充血していて、視界の端はかすんでいた。
三日前から降り続いている雨は、まだ止みそうになかった。
空は灰色で薄暗い。
時間的には、それほど遅いわけでもない。テスト期間中で早帰りなのだから。
将行はため息をつくと、明日の教科のために再び机に向かった。
教科書に印刷されている文字の羅列を頭に叩き込もうとする。しかし、どうにもうまくいかなかった。頭がぼうっとする。昨日はほぼ徹夜だったからだろうか。
「将行!」
窓の外から細く高い声がした。初めは、気のせいだと思った。
「ねぇ、将行ってば!」
確かに声がする。将行は窓を開けた。
将行の部屋は一戸建ての二階にあり、玄関のほぼ真上に位置している。見下ろせば通りに面した門の前で、隣に住む幼馴染の千紗が大きく手を振っていた。肩にちょこんと乗せた赤い花柄の傘と、真っ直ぐな長い黒髪が揺れている。
「お前!? 何やってんだよ?」
「将行、雨だよ。出ておいでよ。早くしないと神様の飴を取り逃がしちゃうよ」
「何、言ってんだよ!?」
叫びながら将行は外へ飛び出した。
「あっめ、あっめ~♪」
千紗は濡れるのもおかまいなしに、傘の下から手を一杯に伸ばして、即興らしき歌を歌っていた。今にもスキップでも始めそうな足には、何故かおばさんのガーデニングシューズを履いている。
「お前、靴……」
かかとの方が妙に低くなっているそれは、決して雨の日に向いたものではない。故に千紗の白いハイソックスは撥ねた泥で汚れてしまっていた。
「雨なんだから長靴を履かなくちゃ」
「それ、長靴じゃねぇよ」
「長靴のつもり! ねぇ、将行も長靴を履いてきてよ」
「長靴なんか持ってねぇよ」
子供の頃は、足のサイズが変わるたびに新しい長靴を買ってもらっていた。長靴は雨の日の必需品だった。――いったい、いつから雨の日でも靴で歩くようになったのだろう。
「おじさんとお揃いの釣り用のやつ、持っているじゃない」
唇を突き出して千紗がむくれる。
「何で俺がお前に付き合って、そんな阿呆な格好をしなくちゃならないんだ?」
「いいじゃない。……子供の頃みたいに、神様の飴を探そうよ」
――雲の上に住んでいる、泣き虫神様の涙が飴になって、雨と一緒に降ってくる。
子供の頃に歌った歌だ。
もしかしたら本当に飴が降ってくるかもしれないと期待して、二人は雨が降ると先を争って外に出た。長靴を履いて、傘を差して。
「お前……」
「い、い、か、ら!」
結局、千紗に押し切られた。
物置から引っ張り出してきた長靴は、膝まであるためか歩くたびにぼこぼこという音がする。千紗のガーデニングシューズと対照的で、二人が並ぶとなんとも間抜けだった。家の前がそれほど人通りの多い道でなかったことに将行は感謝した。
将行の姿に満足した千紗は、次の要求を出す。
「ねぇ、傘をひっくり返してよ」
赤い花柄の傘をぐいっと突き出す。当然、千紗の長い黒髪は守ってくれるものを失って次々に雨粒の襲撃を受けるが、気にするそぶりも見せない。
「あれも、やるのか?」
将行は肩を落とした。
子供の頃の二人は、神様の飴を取る方法を真剣に話し合った。
もし降ってきたら絶対に落としてはならない。そのためには傘の骨をひっくり返して皿の形にすればいいのではないか。そんなことを将行が言い出した。雨水も溜まってしまうが、飴を落とすよりはずっといい。
千紗はうまく傘をひっくり返すことができなかった。だからいつも将行がやってあげていた。一度、傘の骨を折ってしまったのはご愛嬌だ。二人してきっちり怒られた。
「神様の飴、欲しくない?」
真顔で千紗が尋ねる。
「ガキじゃあるまいし、欲しいわけねぇだろ」
昔はどうして欲しいと思ったのだろう。
願いの叶う魔法の飴というわけではない、ただの飴だ。けれど、神様の飴、というだけで、子供だった二人にはすごいものに思えた。手に入らなくても、空から飴が降ってくると考えただけでわくわくした。
本当は――いくら子供でも、飴なんか降ってくるわけがないと分かっていた。ただ雨空の中で千紗とはしゃぐのが楽しかった。
そのうち、将行は名案を思いついた。
ある雨の日、千紗の好きな苺の飴をポケットにねじ込んで外へ出た。そして気づかれないように千紗の傘に乗せた。ほとんど身長差のなかった千紗の傘は思ったよりも高くて大変だったけれど、何とか成功した。
千紗は飛び上がって喜んで、一つしかない飴だから半分こしようと、割れもしない小さな飴を一生懸命、分けようとした。その結果、水溜りに落としてしまったのだ。泣きじゃくる千紗に、水溜りの水はジョウハツしてまた雨になるから、この飴もジョウハツしてまた降って来るよ、と将行はうそぶいた。
それから将行は、いつもポケットに苺の飴をいくつか忍ばせるようになった。そんなことが何度か続いた後、今度は自分の傘にコーラ飴が乗っていた。
「私は欲しいな、神様の飴」
千紗の長い黒髪が、濡れて頬に張り付いていた。将行は黙って傘を受け取り、ひっくり返してから千紗に戻す。千紗は嬉しそうに笑った。昔と同じように。
「小さい頃は楽しかったなぁ……」
聞き取るのがやっとの小さな声。
そして、それから。呟くように――。
「……私、先輩に振られちゃった……」
美男美女のカップルだと、学校中の注目の的だった。先輩と並んで歩く千紗は無邪気な笑顔を振りまき、先輩の取り巻きにすら認められていた。
「……そんなことだろうと思ってたよ」
将行は口をへの字に結んで目を眇める。
「つまんない女、って言われた」
「それがどうした?」
将行の吐き捨てるような口調に、千紗が食って掛かる。
「それがどうした、って? 私、先輩に、要らない、って言われちゃったんだよ!?」
「じゃあ、そんな奴と一緒にいる必要ねぇだろ。別れてスッキリだ」
将行は真っ直ぐに千紗を見る。精一杯の侮蔑を込めた眼差しで。
千紗の口は半分開いたまま、一瞬止まった。しかし、次の瞬間には将行に詰め寄る。
「私はそんなふうには思えない! だって先輩は私のすべてだったんだよ?」
「お前は馬鹿か? お前の存在理由は先輩なのか?」
「そうよ! そうだったのに……」
将行は大きくため息をついた。
「お前さ、何しに来たんだよ?」
訊かなくても分かっている。千紗が欲しいのは肯定の言葉。
だけど口が裂けてもそんな言葉は言ってやらない。
「……将行、ひょっとして怒ってる?」
剣呑な雰囲気に戸惑い、千紗は上目遣いに将行を見た。将行はずっと腹の底に沈んでいた思いを静かに吐き出す。
「ひょっとしなくても、怒ってる。――俺は、誰かが俺のことをつまんない奴と言っても平気だ。世界中の奴が、俺をカスと言おうがクソと言おうが関係ない。俺様の価値は俺様が決めるからだ」
「あはは……。マサちゃんらしいなぁ……」
千紗は苦笑しながら懐かしい呼び方をした。
無数の光が細い尾を引きながら、あとからあとから落ちてくる。
将行は勉強机から顔を上げて背中を伸ばした。首を回すと、ぼきぼきと小気味よいほどの音が鳴る。目は充血していて、視界の端はかすんでいた。
三日前から降り続いている雨は、まだ止みそうになかった。
空は灰色で薄暗い。
時間的には、それほど遅いわけでもない。テスト期間中で早帰りなのだから。
将行はため息をつくと、明日の教科のために再び机に向かった。
教科書に印刷されている文字の羅列を頭に叩き込もうとする。しかし、どうにもうまくいかなかった。頭がぼうっとする。昨日はほぼ徹夜だったからだろうか。
「将行!」
窓の外から細く高い声がした。初めは、気のせいだと思った。
「ねぇ、将行ってば!」
確かに声がする。将行は窓を開けた。
将行の部屋は一戸建ての二階にあり、玄関のほぼ真上に位置している。見下ろせば通りに面した門の前で、隣に住む幼馴染の千紗が大きく手を振っていた。肩にちょこんと乗せた赤い花柄の傘と、真っ直ぐな長い黒髪が揺れている。
「お前!? 何やってんだよ?」
「将行、雨だよ。出ておいでよ。早くしないと神様の飴を取り逃がしちゃうよ」
「何、言ってんだよ!?」
叫びながら将行は外へ飛び出した。
「あっめ、あっめ~♪」
千紗は濡れるのもおかまいなしに、傘の下から手を一杯に伸ばして、即興らしき歌を歌っていた。今にもスキップでも始めそうな足には、何故かおばさんのガーデニングシューズを履いている。
「お前、靴……」
かかとの方が妙に低くなっているそれは、決して雨の日に向いたものではない。故に千紗の白いハイソックスは撥ねた泥で汚れてしまっていた。
「雨なんだから長靴を履かなくちゃ」
「それ、長靴じゃねぇよ」
「長靴のつもり! ねぇ、将行も長靴を履いてきてよ」
「長靴なんか持ってねぇよ」
子供の頃は、足のサイズが変わるたびに新しい長靴を買ってもらっていた。長靴は雨の日の必需品だった。――いったい、いつから雨の日でも靴で歩くようになったのだろう。
「おじさんとお揃いの釣り用のやつ、持っているじゃない」
唇を突き出して千紗がむくれる。
「何で俺がお前に付き合って、そんな阿呆な格好をしなくちゃならないんだ?」
「いいじゃない。……子供の頃みたいに、神様の飴を探そうよ」
――雲の上に住んでいる、泣き虫神様の涙が飴になって、雨と一緒に降ってくる。
子供の頃に歌った歌だ。
もしかしたら本当に飴が降ってくるかもしれないと期待して、二人は雨が降ると先を争って外に出た。長靴を履いて、傘を差して。
「お前……」
「い、い、か、ら!」
結局、千紗に押し切られた。
物置から引っ張り出してきた長靴は、膝まであるためか歩くたびにぼこぼこという音がする。千紗のガーデニングシューズと対照的で、二人が並ぶとなんとも間抜けだった。家の前がそれほど人通りの多い道でなかったことに将行は感謝した。
将行の姿に満足した千紗は、次の要求を出す。
「ねぇ、傘をひっくり返してよ」
赤い花柄の傘をぐいっと突き出す。当然、千紗の長い黒髪は守ってくれるものを失って次々に雨粒の襲撃を受けるが、気にするそぶりも見せない。
「あれも、やるのか?」
将行は肩を落とした。
子供の頃の二人は、神様の飴を取る方法を真剣に話し合った。
もし降ってきたら絶対に落としてはならない。そのためには傘の骨をひっくり返して皿の形にすればいいのではないか。そんなことを将行が言い出した。雨水も溜まってしまうが、飴を落とすよりはずっといい。
千紗はうまく傘をひっくり返すことができなかった。だからいつも将行がやってあげていた。一度、傘の骨を折ってしまったのはご愛嬌だ。二人してきっちり怒られた。
「神様の飴、欲しくない?」
真顔で千紗が尋ねる。
「ガキじゃあるまいし、欲しいわけねぇだろ」
昔はどうして欲しいと思ったのだろう。
願いの叶う魔法の飴というわけではない、ただの飴だ。けれど、神様の飴、というだけで、子供だった二人にはすごいものに思えた。手に入らなくても、空から飴が降ってくると考えただけでわくわくした。
本当は――いくら子供でも、飴なんか降ってくるわけがないと分かっていた。ただ雨空の中で千紗とはしゃぐのが楽しかった。
そのうち、将行は名案を思いついた。
ある雨の日、千紗の好きな苺の飴をポケットにねじ込んで外へ出た。そして気づかれないように千紗の傘に乗せた。ほとんど身長差のなかった千紗の傘は思ったよりも高くて大変だったけれど、何とか成功した。
千紗は飛び上がって喜んで、一つしかない飴だから半分こしようと、割れもしない小さな飴を一生懸命、分けようとした。その結果、水溜りに落としてしまったのだ。泣きじゃくる千紗に、水溜りの水はジョウハツしてまた雨になるから、この飴もジョウハツしてまた降って来るよ、と将行はうそぶいた。
それから将行は、いつもポケットに苺の飴をいくつか忍ばせるようになった。そんなことが何度か続いた後、今度は自分の傘にコーラ飴が乗っていた。
「私は欲しいな、神様の飴」
千紗の長い黒髪が、濡れて頬に張り付いていた。将行は黙って傘を受け取り、ひっくり返してから千紗に戻す。千紗は嬉しそうに笑った。昔と同じように。
「小さい頃は楽しかったなぁ……」
聞き取るのがやっとの小さな声。
そして、それから。呟くように――。
「……私、先輩に振られちゃった……」
美男美女のカップルだと、学校中の注目の的だった。先輩と並んで歩く千紗は無邪気な笑顔を振りまき、先輩の取り巻きにすら認められていた。
「……そんなことだろうと思ってたよ」
将行は口をへの字に結んで目を眇める。
「つまんない女、って言われた」
「それがどうした?」
将行の吐き捨てるような口調に、千紗が食って掛かる。
「それがどうした、って? 私、先輩に、要らない、って言われちゃったんだよ!?」
「じゃあ、そんな奴と一緒にいる必要ねぇだろ。別れてスッキリだ」
将行は真っ直ぐに千紗を見る。精一杯の侮蔑を込めた眼差しで。
千紗の口は半分開いたまま、一瞬止まった。しかし、次の瞬間には将行に詰め寄る。
「私はそんなふうには思えない! だって先輩は私のすべてだったんだよ?」
「お前は馬鹿か? お前の存在理由は先輩なのか?」
「そうよ! そうだったのに……」
将行は大きくため息をついた。
「お前さ、何しに来たんだよ?」
訊かなくても分かっている。千紗が欲しいのは肯定の言葉。
だけど口が裂けてもそんな言葉は言ってやらない。
「……将行、ひょっとして怒ってる?」
剣呑な雰囲気に戸惑い、千紗は上目遣いに将行を見た。将行はずっと腹の底に沈んでいた思いを静かに吐き出す。
「ひょっとしなくても、怒ってる。――俺は、誰かが俺のことをつまんない奴と言っても平気だ。世界中の奴が、俺をカスと言おうがクソと言おうが関係ない。俺様の価値は俺様が決めるからだ」
「あはは……。マサちゃんらしいなぁ……」
千紗は苦笑しながら懐かしい呼び方をした。