蝉時雨~昭和19年・夏~
「明日には戦地に行くんだ……」
部屋の片隅に大きなリュックが置かれている、きちんと畳んだ軍服も……落ち着いてみると青年の行く末が気になる、出会ったばかりだが、この気さくで優しく、そしてどこか凛とした青年に惹かれ始めていたのだ。
「ああ……君の時代は平和なんだろう?」
「ええ、この先ずっと日本は戦争してないし、内戦すら一度もないの、だから戦争って聞くとすごく悪いイメージしかなくて……」
「誰だって平和な方が良いに決まってるよ、僕だってそうだけどこの時代に生まれついちゃったからね」
「行き先は決まってるの?」
「ああ、硫黄島だ」
一瞬、時が凍りついた……この先日本は追い詰められて戦死者もたくさん出るとはいえ兵隊に行ったからといって生きて帰れないと決まったわけではない、しかし、硫黄島となると……。
「だめ! 行っちゃだめよ!……」
思わず口にしてしまった……青年はじっとこちらを見ている。
「そうか……僕は生きて帰れないんだね? 最前線だとは聞いているけど」
「……全滅……する……わ……」
絞り出すように話すのを青年は視線を落して聴いている。
「そうか……硫黄島は取られるんだね……すると、この戦争には負ける?」
もうタイムトラベルの決まりごとなどどうでも良い、この青年がみすみす死にに行くのを黙って見過ごすことは出来ないと思った。
「負ける……この先、日本はどんどん追い詰められて東京や大阪も焼け野原になる……」
広島や長崎ではもっと酷いことに……それはさすがに言えなかった、それこそ歴史に影響が出るかもしれないから。
「そうか……でも64年後も日本はなくなってない、それどころかあんなに発展してる」
「いいの? それでいいの?……だってあなたは……」
「死ぬんだろう?……そりゃ死にたくはないさ、でも行かなくちゃいけないんだ、日本を守る為にね……結局は守りきれないみたいだけど、それでも日本はなくならずに発展する、少しは役に立てるんだ、それだけでも知れて良かった」
「……それで良いはずが……ないじゃない……」
思わず涙が溢れ出してしまった、国を守る為に死ぬとわかっている戦地に赴く……平成の世ではとても考えられない……それなのにこの人は……。
「ありがとう……僕なんかの為に涙を流してくれて……でもね、人はそれぞれ役割を持って生まれて来るんだ、僕の役割は微力でもこの国を、この国の未来を守ることなんだよ……この戦争をここまで引っ張ってしまったことに疑問は持ってるよ、結末も知ってしまったしね……でも、今、死力を尽くさなかったら、この先日本は、日本人は立ち上がれないかもしれない……それに、ほら、さっき言ってただろう? 僕が未来の事を知ったら63年後に誰かが忽然と消えちゃうかもしれないって、僕が戦わなかったら君が消えちゃうかもしれないじゃないか」
「そんなのどうでもいい……行かないで……行っちゃだめよ……」
「泣かないで……まだ名前も聞いていなかったね、僕は和彦、田島和彦」
「私はさくら……鈴木さくら……」
「さくらか……良い名前だ……桜の花は大好きだよ……」
さくらは自分の名前があまり好きではなかった、日本的過ぎるし少し古めかしいと思っていた、それどころか日本と言う国を軽んじて『日本なんてだめね』などと軽い気持ちで言っていた、『日本は昔悪いことをした』と教えられて鵜呑みにしていた……しかし、和彦は日本を守る為に戦うと言う……戦わなければ祖国がなくなってしまうと言う危機感を持って……そして自分は生きて帰れないと知ってなお日本の未来を案じ、それが明るい事を知って喜んでいる。
想像したこともなかった……日本と言う国がなくなるなどという事を……。
考えてみた事もなかった……日本を守ろうとしてくれた人々のことを、そしてその為に命を落した人が沢山いたことも、今の自分はその人たちのおかげで存在するのかもしれないと言うことを……。
忘れていた……平成の豊かな世の中は、焼け野原から力強く立ち上がった人たちのおかげだと言う事を……その勇気を誰から貰ったのかと言う事を。
それもはるかに昔のことではない、曽祖父母、祖父母の時代のことなのだ……。
「うん……私にはもったいないくらいの名前……」
和彦に言われて、改めて自分の名前は日本を守り、今の日本の礎を気付いた人たちが心から愛した花の名前であることに気付いた……。
「もう泣くなよ……」
その声の優しい響きに、さくらの涙はむしろ止まらなくなり、すすり泣きは号泣に……。
「泣くなってば……」
肩を優しく抱いてくれた和彦の胸にさくらはしがみつき……一夜限りの妻となった。
「もう行くのね……」
一夜が明けた。
さくらは和彦が支度を整える物音で目を覚まし、布団の上に思わず正座して和彦を見上げた。
昨日初めて会ったばかりだが、生涯忘れないであろう人を……・。
「見送りに行っても良い?」
「うれしいよ……でも昨日の格好じゃまずいな、さくらには似合わないかもしれないけど……」
もんぺに少し黄ばんだ白いブラウス……やはりつんつるてんだが元々ダブダブのものなのできつくはない、髪型もこの時代に合わせなければと思い鏡に向かう。
「あ、いけない……茶髪だった……」
「お父さんがドイツ人だと言えば良い」
「あ……そうか、同盟国だものね」
「さくら……君に会えて良かった、心置きなく出征できるよ、もっと早くに会いたかったけどね……」
それを聴くとさくらはまた切なくなり……思わず和彦に抱き付いた。
「和彦ちゃん、支度は良いかい?……あ……」
元気の良いおばちゃんががらりと玄関を開け、和彦とさくらの抱擁を見て慌てて背中を向ける。
「お隣のおばちゃんだよ、気の良い人でね、色々とお世話になったんだ……」
和彦はさくらに囁くとさくらを離しておばちゃんに向き直る。
「支度は出来てるよ、今行く」
「和彦ちゃん……その人……」
「おばちゃん……僕も男なんだ、わかってくれるだろう?」
「そりゃわかるよ……あんまり奇麗な娘さんなんで驚いただけさね……外人さんかい?」
「いや、彼女はお父さんがドイツ人なんだ、一日だけだけど僕の妻になってくれたんだよ」
「そうかい……良い思いできたかい?」
「そりゃぁね」
「だろうねぇ……こんなに垢抜けて綺麗な娘、見たことないもの……」
軽くかけたパーマが目立たないようにひっつめ髪に整えているさくらの後姿に、おばちゃんは柔らかな視線を送って来た。
「田島和彦、お国の為に行ってまいります」
敬礼した和彦は振り返ることもなく汽車に乗り込んだ……片道の旅と知っていながら……。
「バンザイ、バンザイ、バンザイ」
お隣のおばちゃんを最前列に、村人総出で見送る中、汽車は滑り出して行く。
「バンザイ、バンザイ……バンザイ…………バンザイ…………」
村人が一人、また一人と離れて行っても、汽車が消えて行った山陰に向かっておばちゃんは叫び続ける。
さくらは最初のバンザイで泣き崩れてしまい、それっきり顔も上げられなかった。
背中にしがみついてでも止めたかったのに……和彦の凛とした顔を見ると何も言えなかった……。
作品名:蝉時雨~昭和19年・夏~ 作家名:ST