Plin
裁判所を出ると、田中は由子の肩をポンと叩いた。
「おめでとう、刑務所には入らなくて済むよ」
「先生、ありがとう……あいつらのことは何か知ってる?」
「バンドのメンバーか? やっぱり実刑だよ、3年だ」
「そう……入れてくれるバンド探さなきゃ……」
「もう、彼らのようなのは止めておけよ」
「そう言われても……何もあてはないし……」
「それなんだが……ツテを辿ってここのオーナーに君の事を話したら興味を持ってくれてね、一度歌を聴きたいそうだ」
田中が差し出した名刺に由子は目を見張った。
「えっ? 有名なライブハウスだよ、これ」
「ああ、そうらしいな」
「ここで歌えるの?」
「そこまではわからない、私は音楽には疎くてね、後は君の実力次第、頑張り次第だな」
「でもチャンスはもらえるんだ……ありがとう、頑張るよ」
「ああ、しっかりな、信じてるけど、もう覚醒剤には手を出すなよ」
「うん、わかってる……あのさ、耳を貸してくれる?」
「ん?」
田中が軽くかがむと、由子はその唇にチュッとキスをした。
「あたし、何もあげられるものないから、せめてものお礼だよ」
「あ……うん……ありがとう……」
「絶対にそこで歌えるように頑張るから、そしたら先生のところにチケット送るから、絶対に見に来て」
「あ、そうだな、なるべく行くようにするよ」
「そんなんじゃダメ、絶対来てよ!」
そう言って思い切り抱きつくと、由子はくるりと背を向けて走り出し、田中は後に残された……化粧の匂いも香水の匂いもない、由子という一人の女性そのままの匂いと、柔らかな唇、若く張り詰めた体の感触と一緒に。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
「そのチケットがこれというわけか」
「まあ、そう言うことだ」
「こりゃ、値千金、光り輝くプラチナチケットだな、そんなに大事なチケットを一枚貰っていいのかよ」
「俺は音楽が良くわからないからな、特にロックにはほとんど馴染みがない」
「まあ、そうだろうな……考えてみれば俺が一番適役、俺しかいないってわけだ」
「つき合わせてすまん」
「いや、俺も楽しみだよ、45年の時を超えてジャニスを聴けるかもしれないんだからな、これがタイムマシンの搭乗券であることを祈るよ」
会場はかなり大き目のライブハウスだが、田中と宮川が到着した時には既に満員、二人は壁際に立っているより他なかった。
元々、やや地味ながら高い実力を認められていたバンドと、人気バンドのヴォーカリストだったプリンのマッチング、双方のファンの期待値は高かったのだ。
二人は仕方なく壁を背に立ったままステージを眺めていると、まずバンドのみの演奏が始まった。
「ほう……上手いな」
宮川が独り言のように言う。
「え? 何か言ったか!? 音が大きくて聞こえないよ!」
「このバンドは上手いって言ったんだ! その由子ちゃん、いや、プリンの歌も楽しみだ!このバンドが認めたヴォーカリストと言うわけだからな!」
田中は少し困ったような微笑を返してきた、そう聞いて嬉しい反面、それがどういうことかわからないでいるようだ。
バンドはまる一曲、インストメンタル曲を演奏した。
「確かに上手いが……」
一曲目が終わると、宮川が呟く。
「ん?何か問題があるのか?」
「バンドはそれ自体素晴らしいよ、60年代、70年代の荒っぽさ、反骨精神を受け継ぎつつ、テクニック的には当時のバンドより一枚も二枚も上手だ」
田中も、わからないなりに聴衆の反応からそれは感じ取っていた。
「だけどな、もし、彼らがジャニス・ジョプリンのバックを務めるとしたらどうだろう……プリンはジャニスを聴いて育ったんだろう? だとしたら上手く噛み合うのか疑問なんだ、ジャニスはブルースロックだが、彼らは明らかにそれよりハードロック寄りなんだよ、水と油とまでは言わないが、水とウイスキーほどには馴染まないんだよ」
「そうなのか……」
田中の顔がはっきりと曇るのを見て、宮川は田中の背中をドンと叩いた。
「だけど、オーディションやリハーサルもやったはずだからな、それなりにマッチするんだろう、心配するな」
「心配とか……俺はここのオーナーを紹介しただけだから……」
いつもは理路整然としている男が、やけに歯切れが悪い。
その時、リーダーに紹介されて、プリンがステージに現れた。
無地の白いTシャツに着古してボロボロになったジーンス、そしてジャニスが好んで着ていたようなだらっとした綿ニットの前開きベストを肩にひっかけている、なんとも飾らない、そっけないいでたちだ。
プリンが加わった最初の曲はジャニスの代表曲『Move Over』
ドラムスのみのイントロが印象的な曲だが、宮川が聴き慣れたものより明らかにスピード感があり、先へ先へとリズムを先取りしていくような感覚がある。
プリンが持っていると言うブルースフィーリングがこの演奏で生きるのか?……
しかし、宮川が抱いた一抹の不安はじきに吹き飛んだ。
イントロに続いてプリンのヴォーカルが乗る、なるほど、プリンの声はジャニスに良く似たハスキーヴォイス、それ自体ブルージーな味わいを湛えつつ、リズムにしっかり乗ってバンドの持つスピード感に身を任せるように歌う。
ジャニスもこのパートではバンドのリズムに合わせた歌い方だった、プリンもそれに準じている。
宮川は期待感を持って、息を殺すようにサビを待った。
ジャニスは歌詞の先頭にnをつけたように一瞬の溜めをつけて歌っていたが、プリンはどうする?……。
聴衆の温度が変わったように感じた。
プリンはnを半分ほどにして歌った、ほんの僅か、スピード感をスポイルしないレベルの溜めをつくり、それが予期せぬグルーヴを生む。
そしてワンコーラス目を締めくくるシャウト、プリンはバンドを先に走らせて思い切った溜めを作り、速射砲のように歌詞を叩き付けた。
どっ、と聴衆が湧き、それを受けたギターソロも冴え渡り、キーボードがそれに絡んで行く。
バンドのサウンドとプリンのヴォーカルが化学反応を起こしていた。
バンドのスピード感がプリンのヴォーカルに更なるパワーを加え、プリンのブルースフィーリングがバンドのサウンドにグルーヴを生み出しているのだ。
(これは凄いぞ、プリンは本物だ、それに、ジャニスはバンドにあまり恵まれなかったが、プリンはそれを手に入れたんだ……)
宮川は唸った……。
そして田中を見やると、既にステージに、いや、プリンの歌に完全に引き込まれていて、宮川の視線に気づきもしない。
まだバンドとプリンが出会ってあまり間が経っていないとあって、ステージはプリンのレパートリーとバンドのレパートリーを織り交ぜた構成。
しかし、そこに寄せ集めのちぐはぐさは感じられない、プリンのヴォーカルとバンドサウンドは融合するのではなく正面からぶつかり合って火花を散らす。
しかし、両者の求めている音楽の姿は完全に一致していた。
宮川と田中を含め、このライブハウスを埋めた聴衆は肌に突き刺さるような切れ味のあるサウンドに熱狂し、魂を鷲掴みにするようなヴォーカルに酔いしれた。