雪色の約束
「当然、恥ずかしいよ? あまりのベタさに、花屋の店員には『絶対、大丈夫ですよ』と太鼓判を押され、途中ですれ違った知らないおっちゃんには『グッドラック』まで指を立てられたよ? でも、相手は春香なんだよ?」
堂々とそう言ったご主人は、康弘の後ろにいる私に気づいて、少し罰の悪そうな顔になった。面識はあるものの、私たちは互いによくは知らない。ご主人は、こほん、と咳払いをして、「それじゃ」と、閉ざされた居間の扉に向かった。
彼は一呼吸置いて、はっきりとした声で言う。
「春香。お前の言い分は分かった。離婚しよう。離婚届をダウンロードしてきた」
……え?
バラの花束を持って、離婚届!?
思わず声を上げそうになった私の隣で、康弘が「最近はそんなものまで、ネットで入手できるのか」なんて感心している。
「な……」
春香さんの言葉にならない呟きが漏れ聞こえた。
「春香、お前、言ったよな。ちゃんと『私』のことが好きなのか、って。『もし私が、十歳年上でも、二十歳年上でも、逆に十歳年下でも、二十歳年下でも、たとえ同性だったとしても、私のことを愛せる?』そう言ったな」
静まり返った家の中で、ご主人の声だけが響く。
「それは、無理だ。十歳年上と十歳年下なら、オッケー。二十歳年上は、まぁ、頑張ればいけると思う。でも、二十歳年下は俺がよくても世間が許さないだろうし、同性同士というのには偏見はないが、残念ながら俺自身は欲情しない。だから、お前の要求には答えられない。よって、離婚だ」
「……分かっ、……たわ」
扉の向こうから、春香さんのかすれた声が聞こえてきた。
「じゃあ、書類を渡すから出てこい」
衣擦れの気配がするまでには、かなりの間があった。それは春香さんの後悔と迷いだろう。
こちらでご主人の姿を見ている私は混乱するばかりで、ただ見守るしかなかった。
扉が開かれる前に、ご主人は花束を背中に隠した。そして、出てきた春香さんに、ニッコリと笑う。
「春香、出てきたね? じゃあ、お前の意思も確認できたということで、離婚成立」
春香さんの目から涙が零れた。嗚咽もなく、ただ、ポロリ、ポロリと涙の粒だけが溢れてきて、春香さんの頬を濡らしていく。
ご主人が、ごほん、と咳払いをした。
「それじゃ独身に戻ったところで、改めて……。俺は『もし私が、十歳年上でも、二十歳年上でも、逆に十歳年下でも、二十歳年下でも、たとえ同性だったとしても、私のことを愛せる? なんて少女趣味なことを、いい歳して恥ずかしげもなく言えちゃう、永遠にロマンチストで純粋な、春香って名前の女』にプロポーズしたいんだけど、いいかな?」
そう言いながら、ご主人は真っ赤な花束を春香さんに差し出す。
春香さんの目が真ん丸になった。そして、花束を受け取りながら、深く深く、頷く。
ご主人が「再婚成立だね?」と余裕の顔でニッコリ笑った。けれど、春香さんに気づかれないように、彼がほっと溜め息をついたのを私は見てしまった。飄々としているように見えた彼も、本当はドキドキしていたに違いない。
「春香、お前が家を去ったあと、冷蔵庫の中でチョコを見つけた」
「……あ。……バレンタインだから買ってきたのよ」
「そう、市販品だった……土台はね。でも、ハートのチョコのど真ん中に下手くそな字で『LOVE』なんて書いてあるやつは、市販品とは言わない。……悠人の手が離せないって言っていたのに作ってくれたんだね。ありがとう」
「や、やだ……! 中まで見ちゃったの!?」
顔を真っ赤にした春香さんは涙の跡がくっきり見えていたけれど、いつもよりずっと美人だった。
「……あなたこそ。お花、ありがとう」
「お前は悠人が生まれて、ふてぶてしく逞しくなったと思う。もう別人、って言っていいくらいにね。だから俺はそれに慣れて、甘えて、忘れていた。お前がチョコに『LOVE』って文字を入れるような奴だってことを。お前は、結婚しようが母親になろうが、キラキラした乙女チックなものが大好きで、常に楽しいことを探しているような奴だ。人間は変わっていくけれど、根っこのところは変わらない」
「あなた……」
「そんなお前を喜ばせるためなら、俺は毎年、バレンタインにバラの花束を贈るよ。何しろ、海外ではバレンタインに、男が女に花を贈るのが主流だそうだしね」
春香さんとご主人が悠人くんの寝ている部屋に向かうと、康弘が私の肩を叩いた。自室に戻ろうと促しているのが分かった。
康弘の部屋でふたりきりになると、私は居心地悪く立ち尽くす。私たちは険悪な状態だったのだ。発端となった春香さんとご主人が丸く収まってしまうと、本当にどうしたらいいか分からない。
春香さんはただの育児ノイローゼで、ご主人が迎えに来た。夫婦喧嘩は犬も食わない。それだけのことだったのかもしれない。
でも……。
あのとき、春香さんは本当に辛かったはずなのだ。その『気持ち』は現実として存在したはずなのだ。
「座れよ」
いつまでも突っ立っている私に康弘が言う。私がいつも使っているクッションは康弘の正面にある。私はおずおずと歩を進め、不自然じゃないくらいの斜め向きに座った。
「栞」
視線は合わせなくても、康弘の声は耳に入ってくる。喧嘩はしたくない。ちゃんと、康弘の顔を見たい。
康弘の態度は、気持ちの上では納得できない。でも、康弘が悪かったわけではないのだ。そして、せっかく康弘と一緒に居るのにギクシャクしているなんて、私には耐えられなかった。
「……ごめんね。康弘の言う通りだった。春香さんのこと、心配しなくて大丈夫だった」
私は康弘に謝った。何度、あの時を繰り返しても、私は春香さんが心配になるだろうし、悲しい気持ちになるだろう。けど、康弘を巻き込んで、康弘と喧嘩腰に話す必要はなかったのだ。
康弘は溜め息をついた。
「栞は、また『ごめん』なのか? あのさ、『ごめん』って先に言っちゃえば、それ以上、追求されなくなる便利な言葉だって知っている?」
「あっ……、ごめんなさい」
反射的に言ってしまってから、私は口元を抑えた。
私たちは同級生で、知り合った時点ではどちらの立場が強いとか、そういうのはなかった。でも今では康弘のほうが強いような気がする。
康弘が再び溜め息をついた。俯いていた私には彼の表情は見えなかったけれど、その息は私に重くのしかかった。
「…………ごめんな」
「え!?」
初め、私の聞き間違いかと思った。今までの康弘の様子から、どうして彼が謝ってくるのか分からなかった。私はびっくりして、思わず顔を上げる。見ることのできなかった康弘の顔を見る。
「俺はずっと、お前に『ごめん』を言わせてきていたんだな。……俺は、俺が間違っていたとは思わない。でも、お前は栞なんだ」
……さっき、ご主人が言っていたのと同じだ。私の胸がドキドキと高鳴った。
「お前は生真面目で一生懸命すぎるところがある。思い込みが激しくて、頑張るほどに空回りする。姉貴のことにしたって、大真面目に『どうしよう、どうしよう』ってオロオロしてたんだろ?」
まさしく、その通りだった。私は黙って頷く。