雪色の約束
美人で気立てが良くて、ちょっとお節介な春香さん。今までも、女心に疎い康弘をこんなふうに窘めることがあった。そんな彼女を頼もしく思っていたのだけれど、今、目の前で肩を丸める彼女は、とても小さく見えた。
「こら」
身動き取れなくなってしまった私たちに割って入ったのは、お母さんだった。
「あんたたち、これ以上、話をややこしくしないの」
「あ……、ごめんなさい。栞ちゃん、困っているね」
さっと口を開いたのは春香さんだった。康弘は睨んだ顔のまま。確かに彼が悪いというわけじゃないけれど、少し融通が利かない。
でも、もっと情けないのは私かもしれない。何か言うべきなのに、言いたいのに、言葉が思いつかない。変なことを言ったら、春香さんを傷つけてしまうかもしれないし、康弘を怒らせてしまうかもしれない。それが怖くて声が出なかった。
「まったく、もう!」と、お母さんが大きく息を吐く。
「話し合うべき相手と、ちゃんと話し合いなさいよ。文句を言うのも面倒くさい、って思えるくらいまで、言いたいことを言い尽くしたら諦めもつくから。春香も、康弘も、それから栞ちゃんもね?」
お母さんは解釈に困るようなことを言いながら、そっと出ていくように康弘を促した。
二階の康弘の部屋に行く途中、襖が開けっ放しになっている和室から、すやすやと眠る悠人くんと添い寝をしているお父さんの姿が見えた。
お父さんは私たちに気づくと、手だけ振って、それでおしまい。私が初めてこの家に遊びに来たころは、やたらとぎこちなかったお父さんが、すっかり変わった。それこそ、右手と右足が同時に前に出てしまうような感じだったのだ。だから今の関係は不思議で、自然。くすぐったいような嬉しさがある。
「ほんと、ごめんなぁ」
部屋に入った康弘は、机にお茶のトレイを置いて、疲れ果てたようにクッションに腰を下ろした。淡いブルーのクッションカバーは私のお手製である。手芸なんかまともにしたことのない私が、キットを使えばできるかも、と挑戦したやつだ。康弘のお尻に踏み潰され続けたせいか、もともとの作りが雑だったからか、ところどころ糸がほつれている。
「春香さん、だいぶ参っているみたいだったね」
「どうせ、育児ノイローゼってやつだろ。せっかくの俺たちの休日を台無しにするなよなぁ」
康弘が子供っぽくむくれた。そして、私のバッグにちらりと目をやる。ご飯を貰う前のタロにそっくりな顔になった。
チョコを期待されている……。毎年恒例なんだから、当然といえば当然なんだけど。
でも、あの春香さんを見て、すぐにいつも通りってのは、ないと思う。春香さんじゃないけど、少しくらい『特別な日』というムードを気にしてほしい。
クリスマスのときは『この前、先輩に連れて行ってもらった、安いのにメチャクチャ美味い店に行こう』と久々の外食の約束をした。当日、どんな素敵なお店だろうと期待していたら、ラーメン屋さんだった。康弘の言うことに間違いはひとつもなくて、安くて本当に美味しかった。けど、なんでクリスマスなの? と思ったのも事実だ。
春香さんの言葉が、ちくりと胸に引っかかった。
――ちゃんと、栞ちゃんを見ている? 栞ちゃんのことを考えている?
「康弘……。言いたいことは分かるし、康弘は何も悪くない。でも……ちょっと春香さんに気を遣ってもいいと思う」
「なんだよ? お前、姉貴が泣いているから可哀想っていうのか? 旦那と喧嘩して『実家に帰らせていただきます』を地で行っているだけじゃん」
「でも!」
「気を遣えとか言われてもさ。姉貴だって悠人が泣き出したら、俺や親父の前で、いきなり胸出しやがるんだぜ? 家にいたころは洗濯物の下着を見ただけで『デリカシーがない』って怒っていたくせに。姉貴のほうこそ、何様? って感じ」
悠人くんが泣いたことと話がどう繋がるのか、一瞬分からなかったけれど、つまり母乳を上げるために服をはだけさせたということなのだろう。
私が来る前にも、一悶着あったようだ。
「ごめん……」
「……せっかくのバレンタインなのにな。俺、栞に逢えるのを凄く楽しみにしてたのに……」
「だから、ごめん、って」
「でも、お前、納得してないだろ? 俺としては『姉貴んとこは喧嘩しているけど、俺たちは仲良くしようぜ』って、持って行きたかったんだけどさ」
「もう、いいって」
「良くないだろ? 腹の中でムシャクシャしながら、面の皮だけニッコリしてれば丸く収まるって? そんなの駄目だろ? おかしいだろ?」
「だからっ! 私、もういいって……」
「いいわけないだろう?」
康弘の静かな怒りが、じわじわと伝わってくる。いつだって康弘は正しい。今だって、ちゃんと私の言い分を聞こうとしてくれている。私が意見を言って、康弘と衝突して、私が謝って、それでも康弘が……?
「……違う! 康弘は自分が正しいって認めてもらいたいだけ!」
私の中で、何かが弾けた。長い付き合いの中、同じようなことが何度も繰り返されてきた気がする。
「康弘が言うことは、いつだって正論だよ。私がどんな気持ちになっても、春香さんに何かしてあげられるわけじゃない。だから康弘の言うとおり、私と康弘は予定通り楽しい休日を過ごすのが建設的だよ。でも、私は春香さんのことで悲しい気持ちになっている。そう『なっている』ことを康弘に受け止めてほしい。同調しなくてもいい、でも、私が『悲しい』って思ったことを理解してほしいの! それは正しいとか間違っているとか、そういう問題じゃない!」
「栞……?」
「私、康弘が好きだよ? 結婚したいと思っている。でも、康弘はニコニコしている私だけが好きなの?」
「ああ? なんだよ? 何が言いたいんだよ? 栞も姉貴も、わけ分かんないよ!」
私だって、自分が支離滅裂になっているのは分かっている。苛ついた康弘の顔が怖い。この場から逃げ出したかった。
嫌な沈黙が落ちた。
それを破ったのは私でも康弘でもなかった。
ピンポーン、ピンポーン。
インターホンが鳴る。
ピンポーン、ピンポーン……。
「お母さん、出る必要ないからね!」
階下から、春香さんの怒鳴り声が聞こえる。
ピンポン、ピンポン!
「春香! 俺は謝りに来たわけじゃないぞ!」
家の外から男性の声が聞こえた。
「じゃあ、何しに来たのよ!」
再び、春香さんの声。
康弘が立ち上がって窓から玄関を見下ろした。そして、げんなりとした顔になった。
「近所迷惑だから、入ってもらいなさい!」
「嫌よ! やめてよ、お母さん!」
そんな母子の遣り取りに溜め息をついて、康弘が無言で玄関に向かう。私も慌ててついていった。
玄関から入ってきたのは、真っ赤なバラの花束だった。その後ろから、もうひとりの当事者がついてくる、と言うのが正しいくらいに、大きな花束だった。
「康弘くん、ご迷惑をお掛けしているね」
扉を開けた康弘に、男性が頭を下げる。言わずもがな、春香さんのご主人だ。
「……そこまでやりますか?」