雪色の約束
「姉貴の心配は要らないけど、お前がそうやって姉貴を心配する気持ちは大切にするべきだった。だって、俺はお前のそういうところに惚れたんだから。俺、馬鹿だなぁ……」
康弘はそう言って、自分の頭をコツンと叩いた。
「お前も知っているだろ? 俺は現実主義で、実利主義で、だから周りとのトラブルも絶えない。仲が良かった友だちとも喧嘩別れしたこともある」
「康弘……」
「けど、周りが俺を煙たがっても、お前だけは違ったんだ。お前は俺の気持ちを考えてくれる貴重な存在だったんだ。……俺は、それを忘れていた。お前がそばに居ることが当たり前になっていて、『栞』を見ていなかった。俺は『栞』が大好きだったのにな……」
康弘の顔が歪んだ。
康弘は気難しくて偏屈なところもあるけれど、時々、妙に子供っぽい。そんなとき、康弘は純粋な心からの笑顔を見せてくれる。初めてのデートで『彼女と一緒にアイスクリームを食べるのが夢だった』なんて言いながら満面の笑顔を見せてくれたとき、私は『人を幸せにする笑顔』というものを初めて見たと思った。
ううん。子供っぽいときも現実主義のときも、康弘は裏表なく自分の素直な気持ちを伝えてくれる。それを我儘という人もいるかもしれないけれど、康弘は飾ることなく正直な人なのだ。私は、そんな素顔の康弘を好きになったのだ。私もそれを忘れて、気づかないうちに自分の理想を押し付けていたかもしれない。
私は手の届く距離に置きっぱなしにしてあったバッグを引き寄せた。
「……今までさ、何か言い争うことがあったとき、たいてい俺が押し切ってきたよな。けど、それじゃ駄目だと思った。『栞』を理解するために、『栞』を好きでいるために、これからは押し付けじゃない、ちゃんとした喧嘩をしていきたい」
「私の方こそ、喧嘩したくないって気持ちが強くて、『ごめん』って言葉で逃げていたかもしれない……」
「俺は『栞』が好きだよ」
「私も『康弘』が好き」
私はバッグの中から、ラッピングされた箱を出した。康弘が愛犬タロの顔になる。こんな子供っぽいところが見え隠れするのも、私が大好きな彼の一面。
「ハッピーバレンタイン、康弘」
ぱぁっと満面の笑顔を浮かべた康弘が、受け取った箱を早速空けて、パヴェ・ショコラを一口食べる。
「美味ぁい! 相変わらず、栞のチョコは最高だぜ!」
「康弘。生チョコって、チョコと生クリームで出来ているんだけど、どっちの温度を上げ過ぎても分離しちゃうの」
「もぐ?」
「互いに熱くなり過ぎちゃ駄目、って、人と人の関係と似ていない?」
「もぐもぐ……」
康弘は口の中を空にすると、うっとりと目をつぶった。空のお皿を前にした食後のタロとそっくりだ。
「うーん。でも、俺は熱々のグツグツまで喧嘩してでも、しっかりと『栞』を見極めたいと思うよ」
そう言って、康弘が笑う。
ふたつ目に手を伸ばしかけた康弘が「あ! 雪!」と、叫んだ。
「わぁ……。バレンタインに雪って、素敵だね!」
私がそう言ったら、康弘はちょっと微妙な顔をした。そして、生チョコの箱に蓋をして机に移す。
「確かに雪はロマンチックだけど、タロの散歩ができなくなる。本降りになる前に出かけるぞ!」
ムードも何もない、相変わらずの現実主義の正論だ。康弘のこんなところは、きっと永遠に変わらないのだろう。
ちらちらと白雪の舞い落ちる中、ぐいぐい引っ張るタロを先頭に私たちは歩く。散歩が大好きなタロは元気に尻尾を振っていたが、大きなくしゃみをしたところを見ると、やはり寒いらしい。
家を出たときは、まだ降り始めだったので傘は持ってこなかった。康弘の髪に、雪の結晶がふわりと降りてきては、溶けていく。きっと私の頭も同じようになっているだろう。
「積もるかな?」
あとからあとから、やってくる純白の雪を見上げながら、私は言った。
「この様子だと積もるかもしれないな。明日の朝は一面の雪景色だ」
「素敵だね。あ、でも、康弘は通勤電車が心配になっちゃう?」
康弘の思考回路からすれば、ダイヤの乱れを気にするはずだ。この辺りはそんなに雪が降らないから、いざ大雪になると電車は止まってしまう。
「栞。今の俺は、そんな野暮な男じゃないぞ」
むっとした顔をしてから康弘が笑った。そして、少しだけ真顔になって続ける。
「……いつものよく知っている風景が、明日の朝には真っ白にガラッと変わるんだ。でも、その下には、ちゃんといつもの風景が隠れている。数日後に、雪が溶ければ元通りだ」
いつもの散歩コース。康弘も通ったという小学校の脇を抜けて、公園に出る。降り始めの雪はすぐに溶け、冷たく遊具を濡らすだけ。今は子どもたちの姿はない。けれど明日には雪合戦会場になり、そして、明後日か明々後日には、日陰に溶けかけの雪だるまが見守る中で、いつもの遊具が活躍するのだろう。
康弘がふぅっと息を吐いた。真っ白な煙の向こうで彼が笑う。
「雪だけじゃなくて、雨でも風でも、季節が変わることでも、景色は変わっていく。でもやっぱり、俺のよく知っているこの場所なんだ。時が経って付近の様子が変わっても、たぶん、この場所の面影は残るだろう。……お前は人をチョコに喩えたけれど、俺はこの風景に似ているな、って今、思ったんだ」
私は康弘に一歩近づいて、康弘と同じ方向に顔を向けた。彼と同じ風景を見ながら「そうだね」と頷く。
「……姉貴たちを見ていて思ったんだけど、俺たちもきっと、これから先、どんどん変わっていくと思う。時には雪に包まれた景色みたいに、まったくの別人に見えることがあるのかもしれない」
ここで康弘は隣に立つ私に顔を向けて、私の大好きな笑顔になった。
「……でも、その下にはいつもの栞が隠れているってことを、俺は忘れない。そう約束する」
学生時代からずっと一緒にいるけれど、私たちは同じ価値観を持っているわけじゃない。そして私も康弘も変わっていくことがあるし、変わらないところもあるだろう。
康弘が小指をピンと立てて、私の前に差し出した。
その指先にも雪が舞い降り、染みこむように溶けていく。
そして、私たちは互いの小指を絡め合わせた。
生チョコの秘訣は水飴だけど、私たちの秘訣はなんだろう?
康弘とは、この先ずっと一緒に居るのだ。それはゆっくり考えよう。