雪色の約束
チョコレートを湯煎にかけて、生クリームも人肌に。温度の上げ過ぎは分離の元。秘訣は、水飴をほんのひとたらし。
ゆっくり優しく、すべてを混ぜ合わせて……ほら、素敵に出来上がり。
私は、毎年お馴染みになったパヴェ・ショコラを箱に収めた。蓋を閉めるときに、仕上げのココアがふわっと飛び散ったのも、綺麗に拭き取る。そうしないと、ココアの指紋がついてしまうのだ。
パヴェ・ショコラ――格好よく言っているけれど、要するに石畳の形の生チョコである。材料も作り方も簡単。でも、温度にコツがある。初めて作ったときには油の層ができてしまって顔面蒼白になった。
作り直す時間も材料もなかったから、そのまま康弘に渡すしかなかった。「大切なのは気持ちだよね!」と、強がりを言って。
ひとくち食べた彼は「すっげぇ、美味い!」と叫んで、あっという間に半分平らげた。そして「勿体ないから、残りは後で食べる」と蓋をした。康弘の口元は子供みたいに茶色い髭が生えていて、可笑しいのに嬉しくて、ちょっと涙が出た。見た目をココアで誤魔化していたけれど、少し齧れば中の黄色い油の塊が見えていたんだから。
今年のバレンタインは日曜日。平日だったら仕事のあとにしか逢えなかったところだけど、明日は康弘の家に行く。康弘の家、と言っても、彼は実家で両親と暮らしている。私も同じく実家暮らし。今はそうするべき時なのだ。
だって、就職して三年で結婚する――そう、私たちは宣言したのだから。
それまで貯金して、それまで親孝行する。
約束の日まで、あと一年ちょっとになった。
康弘の家が見えてくると、まず一番に彼の愛犬のタロが引きちぎれんばかりに尻尾を振って出迎えてくれる。じゃらじゃらと鎖を限界まで伸ばす音で康弘が気がついて、玄関を開ける。
「栞!」と、満面の笑顔を向けてくれるのだ。
そんないつも通りを期待していたのに、扉を開けた彼は渋面を作っていた。バレンタインにウキウキとチョコレートを持ってきた恋人、いや、婚約者へのあまり仕打ちに私は思わず声を荒らげた。
「何よ? 康弘」
「しー」
康弘は人差し指を口に当てて、私に顔を寄せた。一週間ぶりの彼に心が踊ってしまうが、悔しいから私は顔を不機嫌に保つ。
「……ごめん。今、やっと寝たところなんだ……」
「え? 誰が?」
わけが分からない。
「姉貴が、帰ってきている。旦那と喧嘩したらしい。別れてやるって、置き手紙して出てきたって」
「え、えええ!!」
「こら、大声出すな。やっと寝ついてくれたんだよ……」
私は状況を理解した。康弘のお姉さん、春香さんが生後五ヶ月の悠人くんを連れて、家を飛び出してきた、ということを――。
発端は昨日の土曜日。普段、家事と育児に追われる春香さんは「休日くらいは手伝って」と、悠人くんをご主人に預けたのだそうだ。そして何やらトラブルが起こり、夜に大喧嘩。
すぐさま飛び出したかった春香さんだけれど、乳飲み子の悠人くんを寒い夜中に連れて出るなんてできない。ぐっと堪えて朝を待って、ご主人が起きてくる前に家を抜け出してきた――ということだった。
「いきなり、ごめんな。さっき一応、携帯に電話したんだけど電車に乗ってたみたいで……」
康弘の言う通り、マナーモードで気づかなかったらしい。確認したら着信履歴が残っていた。
とりあえず康弘の部屋へ、ということになったのだけれど、居間の前を通るときに「栞ちゃん!」という春香さんの声に呼びとめられた。思わず、といった感じにソファーから腰を上げた春香さんは、真っ赤な目で瞼が腫れ上がっていた。
彼女は「あっ」と、小さく呟いて口元を手で覆う。
「ごめんなさい。そうよ、今日はバレンタインなのよね。――うん。お洒落に気合入っている。お洋服、おニューでしょ?」
「え、分かりますか?」
「パリッとした感じと、今年らしさ意識したあたりにね。とっても似合っている。可愛いわ」
美人の春香さんに可愛いと言われるのは、ちょっと照れくさい。そして、断言してもいい。康弘は気づいていなかった。いつも忘れたころに「そう言えば、その服、初めて見た気がする」なんて言ってくるのが康弘なのだ。
「……康弘から聞いていると思うけど、私のことは気にしないで出かけてね。バレンタインデート、楽しんできてね」
そう言って春香さんは、「いってらっしゃい」と手を振ってくれた。
「姉貴。何か勘違いしているようなんだけど、栞は今日、『俺の家』に、出かけてきたの。俺の部屋で、俺とまったりとした休日を過ごす予定なんだよ。あとは一緒にタロの散歩してさぁ」
「ちょ、ちょっと、何それ信じられない! 若者らしく話題のデートスポットとかレストランとか、連れて行ってあげなさいよ! どうせそのうち、行けなくなるんだから」
「そういうのは俺たちのスタイルじゃないんだよ。俺たち金を貯めているんだから。休みの日は互いの家を中心に、おうちデート。お袋には手間かけさせて悪いけど、レストランより我が家飯だ。俺、栞がいれば別に流行りものとか興味ないし」
「何よ、それぇ!?」
春香さんの叫び声に、台所からお母さんが現れ、「春香! 悠くんが起きちゃうでしょ!」と睨みをきかせた。
お母さんの姿が見えないと思ったら、お茶の準備中だったらしい。私と康弘のマグカップが載ったトレイを運んできてくれた。
そう。康弘の家には私専用のマグカップがある。それどころか、お茶碗やお箸、湯呑みに至るまで揃っている。康弘の言う通り、外食しないで互いの実家にご飯をたかっているのだ。言い訳かもしれないけど、安上がりという以上に、康弘のお母さんの料理は美味しい。いずれ比較されるのかと思うと気は重いのだけど。
お母さんが、康弘に「部屋に持っていく?」とトレイを示すと、彼は「そうする」と受け取った。そこで、春香さんが待ったをかけた。
「ちょっと! 康弘に言いたいことがある!」
「なんだよ」
「あんた、ちゃんと、栞ちゃんを見ている? 栞ちゃんのことを考えている? 今からこんな家に居着いちゃう生活でいいの? 両親と仲良のいい彼女なんて、康弘はいいかもしれないけど、自分の理想を押し付けてない!?」
「いいかげんにしろよ、姉貴! 旦那と何があったのか知らないけど、姉貴こそ俺たちに自分の理想を押し付けているんじゃないか!」
康弘の言葉に、春香さんの目からポロリと涙が零れた。
けれど、康弘は口を一文字に結んだまま、春香さんのことを睨みつけている。
康弘は正しいと思ったら絶対に引かない。そんな真っ直ぐな彼のことは好きだけれど、春香さんは思いつめて家を飛び出してきたのだ。それに春香さんは、私のことを心配して言ってくれたわけで……。
私の目線はオロオロとふたりの顔を行ったり来たりした。
「栞ちゃん、本当に康弘でいいの? 康弘は栞ちゃんのことを『栞ちゃん』として見ている? 『彼女』として見ていることはない!? 私……、あの人に『私』として見てもらってない! 『妻』で『母親』で、その役割を果たすのが当然だ、って……」
そう言って、春香さんは泣き崩れた。
ゆっくり優しく、すべてを混ぜ合わせて……ほら、素敵に出来上がり。
私は、毎年お馴染みになったパヴェ・ショコラを箱に収めた。蓋を閉めるときに、仕上げのココアがふわっと飛び散ったのも、綺麗に拭き取る。そうしないと、ココアの指紋がついてしまうのだ。
パヴェ・ショコラ――格好よく言っているけれど、要するに石畳の形の生チョコである。材料も作り方も簡単。でも、温度にコツがある。初めて作ったときには油の層ができてしまって顔面蒼白になった。
作り直す時間も材料もなかったから、そのまま康弘に渡すしかなかった。「大切なのは気持ちだよね!」と、強がりを言って。
ひとくち食べた彼は「すっげぇ、美味い!」と叫んで、あっという間に半分平らげた。そして「勿体ないから、残りは後で食べる」と蓋をした。康弘の口元は子供みたいに茶色い髭が生えていて、可笑しいのに嬉しくて、ちょっと涙が出た。見た目をココアで誤魔化していたけれど、少し齧れば中の黄色い油の塊が見えていたんだから。
今年のバレンタインは日曜日。平日だったら仕事のあとにしか逢えなかったところだけど、明日は康弘の家に行く。康弘の家、と言っても、彼は実家で両親と暮らしている。私も同じく実家暮らし。今はそうするべき時なのだ。
だって、就職して三年で結婚する――そう、私たちは宣言したのだから。
それまで貯金して、それまで親孝行する。
約束の日まで、あと一年ちょっとになった。
康弘の家が見えてくると、まず一番に彼の愛犬のタロが引きちぎれんばかりに尻尾を振って出迎えてくれる。じゃらじゃらと鎖を限界まで伸ばす音で康弘が気がついて、玄関を開ける。
「栞!」と、満面の笑顔を向けてくれるのだ。
そんないつも通りを期待していたのに、扉を開けた彼は渋面を作っていた。バレンタインにウキウキとチョコレートを持ってきた恋人、いや、婚約者へのあまり仕打ちに私は思わず声を荒らげた。
「何よ? 康弘」
「しー」
康弘は人差し指を口に当てて、私に顔を寄せた。一週間ぶりの彼に心が踊ってしまうが、悔しいから私は顔を不機嫌に保つ。
「……ごめん。今、やっと寝たところなんだ……」
「え? 誰が?」
わけが分からない。
「姉貴が、帰ってきている。旦那と喧嘩したらしい。別れてやるって、置き手紙して出てきたって」
「え、えええ!!」
「こら、大声出すな。やっと寝ついてくれたんだよ……」
私は状況を理解した。康弘のお姉さん、春香さんが生後五ヶ月の悠人くんを連れて、家を飛び出してきた、ということを――。
発端は昨日の土曜日。普段、家事と育児に追われる春香さんは「休日くらいは手伝って」と、悠人くんをご主人に預けたのだそうだ。そして何やらトラブルが起こり、夜に大喧嘩。
すぐさま飛び出したかった春香さんだけれど、乳飲み子の悠人くんを寒い夜中に連れて出るなんてできない。ぐっと堪えて朝を待って、ご主人が起きてくる前に家を抜け出してきた――ということだった。
「いきなり、ごめんな。さっき一応、携帯に電話したんだけど電車に乗ってたみたいで……」
康弘の言う通り、マナーモードで気づかなかったらしい。確認したら着信履歴が残っていた。
とりあえず康弘の部屋へ、ということになったのだけれど、居間の前を通るときに「栞ちゃん!」という春香さんの声に呼びとめられた。思わず、といった感じにソファーから腰を上げた春香さんは、真っ赤な目で瞼が腫れ上がっていた。
彼女は「あっ」と、小さく呟いて口元を手で覆う。
「ごめんなさい。そうよ、今日はバレンタインなのよね。――うん。お洒落に気合入っている。お洋服、おニューでしょ?」
「え、分かりますか?」
「パリッとした感じと、今年らしさ意識したあたりにね。とっても似合っている。可愛いわ」
美人の春香さんに可愛いと言われるのは、ちょっと照れくさい。そして、断言してもいい。康弘は気づいていなかった。いつも忘れたころに「そう言えば、その服、初めて見た気がする」なんて言ってくるのが康弘なのだ。
「……康弘から聞いていると思うけど、私のことは気にしないで出かけてね。バレンタインデート、楽しんできてね」
そう言って春香さんは、「いってらっしゃい」と手を振ってくれた。
「姉貴。何か勘違いしているようなんだけど、栞は今日、『俺の家』に、出かけてきたの。俺の部屋で、俺とまったりとした休日を過ごす予定なんだよ。あとは一緒にタロの散歩してさぁ」
「ちょ、ちょっと、何それ信じられない! 若者らしく話題のデートスポットとかレストランとか、連れて行ってあげなさいよ! どうせそのうち、行けなくなるんだから」
「そういうのは俺たちのスタイルじゃないんだよ。俺たち金を貯めているんだから。休みの日は互いの家を中心に、おうちデート。お袋には手間かけさせて悪いけど、レストランより我が家飯だ。俺、栞がいれば別に流行りものとか興味ないし」
「何よ、それぇ!?」
春香さんの叫び声に、台所からお母さんが現れ、「春香! 悠くんが起きちゃうでしょ!」と睨みをきかせた。
お母さんの姿が見えないと思ったら、お茶の準備中だったらしい。私と康弘のマグカップが載ったトレイを運んできてくれた。
そう。康弘の家には私専用のマグカップがある。それどころか、お茶碗やお箸、湯呑みに至るまで揃っている。康弘の言う通り、外食しないで互いの実家にご飯をたかっているのだ。言い訳かもしれないけど、安上がりという以上に、康弘のお母さんの料理は美味しい。いずれ比較されるのかと思うと気は重いのだけど。
お母さんが、康弘に「部屋に持っていく?」とトレイを示すと、彼は「そうする」と受け取った。そこで、春香さんが待ったをかけた。
「ちょっと! 康弘に言いたいことがある!」
「なんだよ」
「あんた、ちゃんと、栞ちゃんを見ている? 栞ちゃんのことを考えている? 今からこんな家に居着いちゃう生活でいいの? 両親と仲良のいい彼女なんて、康弘はいいかもしれないけど、自分の理想を押し付けてない!?」
「いいかげんにしろよ、姉貴! 旦那と何があったのか知らないけど、姉貴こそ俺たちに自分の理想を押し付けているんじゃないか!」
康弘の言葉に、春香さんの目からポロリと涙が零れた。
けれど、康弘は口を一文字に結んだまま、春香さんのことを睨みつけている。
康弘は正しいと思ったら絶対に引かない。そんな真っ直ぐな彼のことは好きだけれど、春香さんは思いつめて家を飛び出してきたのだ。それに春香さんは、私のことを心配して言ってくれたわけで……。
私の目線はオロオロとふたりの顔を行ったり来たりした。
「栞ちゃん、本当に康弘でいいの? 康弘は栞ちゃんのことを『栞ちゃん』として見ている? 『彼女』として見ていることはない!? 私……、あの人に『私』として見てもらってない! 『妻』で『母親』で、その役割を果たすのが当然だ、って……」
そう言って、春香さんは泣き崩れた。