そぞろゆく夜叉 探偵奇談11 前編
水の中を漂っているかのような、違和感。ゆらゆらと、自身の周囲が歪んで揺らめいているみたいだ。何も考えられない。ぼんやりする頭の中に、ふいに声が響いてきた。懐かしい声。瞼の裏側に、オレンジの光が広がる。眩しい…。
「…ああ、」
そっと目を開けると、伊吹は夏の夕暮れの下に立っている。ヒグラシの声。川のせせらぎ。周囲には家家がぽつぽつと点在している。小さな村の、田んぼのあぜ道。眩しい夕焼け。あせばんだ背中の感触。
(なんだろう…?)
低い視線に違和感を覚える。手足を見つめると、自分は小学生のようないでだちだった。泥だらけのTシャツ、ビーチサンダル。肩から下げた虫かごの中に、カブトムシ。
ああ、子どもの頃だろうか。大人たちに守られ、何も怖いことなどなかった子どもの頃の自分だ。
だけど、これは「いつ」の記憶だろう。この風景も、このビーチサンダルも、そしてあぜ道の前を歩く誰かのことも、うまく思い出せない…。
「…だれ?」
前を歩く背中に小さく声をかける。振り返るミルクティーの髪。派手な色合いのTシャツ。片手にアイスを持って、不思議そうに伊吹を振り返っている。
ああ、瑞だ…。
こいつのことを、俺はよく知ってる。
「どうした伊吹。足が痛むのか。もう晩御飯だし、みんな心配してる。頑張って歩け」
親し気にそう話しかけてくる瑞。こいつは、こんなだったっけ。
先輩、と少し遠慮気味に名前を呼んでくるのが常だった気がするのに。
「おいで。佐里(さり)がびっくりするだろうなあ。セミをおっかけて田んぼにおっこちたなんて知ったら。どろだらけだ」
そう言って笑う瑞に、手を差し出される。なんの躊躇いもなく、伊吹はその手を握る。その瞬間、胸がつぶれるほどの感情がせり上がってきた。悲しい、悔しい、そう言った感情。
「伊吹?どうした?」
笑っている。なのに伊吹は、悲しくてたまらない。
この先、季節が流れた冬の日に、別れが待っているのを知っているから。
作品名:そぞろゆく夜叉 探偵奇談11 前編 作家名:ひなた眞白