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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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影さえ消えたら 6.暴露

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***

 意識を取り戻した隼人の目の前に、濁々と流れるあの河があった。あたりは闇に包まれて人気はない。河川敷に広がる雑草は小雨に濡れ、水量を三倍近く増した河が、川底まで洗い流す勢いで渦を巻いている。

 遠くから祭囃子が聞こえる。土手の上に伸びる道路に、車が一台も見えない。普段は交通量の多いこの道を通行止めにするのは、神輿を担ぐ本宮の日のみだ。

 夜空には雲が足早に流れ、日没後だというのに生ぬるい風が吹いている。野生の柳の大木が風にあおられてざわめいている。霧のように細かい雨が隼人の頬にあたる。

 小学四年の九月、複数の台風が立て続けにやってきたこともあり、二度ほど小学校が休校になった。危惧されていた神宮祭は雨の止み間に執り行われ、町内の神輿も予定通り奉納されることになった。大量の雨水によって街中が洗われ、河の上流からは泥の混じった濁流がどうどうと流れてきていた。子供だけで河に近づくことは学校でも禁止されていたが、「台風が来たら豚が流れてくる」という噂が子供たちの間で出回っていて、好奇心にかられて河を見に来る子供も少なくなかった。

 この日の夜、隼人は神輿奉納後の集まりを抜け出して、河を見に来た。河に落ちてしまった綾女の帽子を取ろうとして、水の中に落ちた。もし二人の存在が消えてしまうなら、きっとそのときだろうと考えた。

 ともかくも先に「×」印をつけられた綾女を探さなくては――そう思いながら必死になってあたりを見回す。土手の上には外灯があるが、河のそばはとにかく視界が悪い。うっかり足をすべらせて自分が河に落ちてしまわないように、とふくらはぎに力を入れる。
 足の裏に痛みを感じて、裸足だと気づく。前回は父に靴を借りたけれど、今回はそうもいかないか、と思わず苦笑してしまう。

 小さい隼人が住むあの家に感じた違和感――それは兄の存在が消えたからだと、今になって気づく。最初に隼人が目を覚ましたあの和室は、兄の直人が使っていた部屋だ。彼が高校に進学してからも学習机の類はずっと残されていた。けれど過去に飛んだ時点で、兄のものは消えてしまっていた。

 母の手の甲に残る傷は、隼人と直人の兄弟げんかに母が入ったとき、割れたガラスの破片でつけられたものだ。あの傷が残っていたということは、兄はどこかの時点までは存在していたことになる。あれは確か小学校に上がる前の夏――思い出そうとすると、鈍い痛みが頭の中に走る。記憶の糸をうまく手繰りよせることができず、隼人は頭をふる。

 今はとにかく綾女を救わなければ――そう考えなおして、雨に濡れた草の上を走っていく。

 正確な時刻はわからないが、祭囃子がまだ聞こえているということは、小さい隼人がこのあたりを徘徊している可能性が高い。どうかまだ生きていますように、と祈るような気持ちで、ある地点を目指す。

 すると前方に小さなふたつの影が見えた。風の音でよく聞こえないが、ふたりは何か言い争っているようだった。隼人は早鐘のように打ち始める心臓をこらえながら、全速力でかけよっていく。
 ふたつの影が立っていたのは、十歳の夏に隼人が命を落としかけた、その場所だった。

「なんで夜やのに帽子かぶってくるんや!」

 そう声を上げたのは十歳の隼人だった。胸の前で手を組み合わせた小さな綾女が、泣きそうな顔で河面を見つめている。
 そこには、彼女の亡き母が買い与えた帽子が浮いていた。荒れ狂う河の上でなぜ浮いているのか、それは真下にある杭に偶然引っかかったからで――

 雷光のように記憶がよみがえり、口の中が乾き始める。彼らに気づかれないように隼人は歩みよっていく。おそらく小さい隼人はあの帽子を取ろうと身を乗り出す。こんな河、何度だって泳いでいるのだから怖くなんかないと自分を奮い立たせて。泣いている綾女を見たくないと自分に言い聞かせて――

 次の瞬間、突風にあおられて小さい隼人の体が宙に浮いた。目の前にあった少年の姿は、黒い渦の中に消えてしまう。

 反射的に飛び出しそうになり、隼人は踏みとどまった。あの時、誰かが隼人を助けてくれた。渦に飲まれて死を覚悟した隼人を励まし、濁流の中から引き上げてくれた。父でも兄でもない、懐かしい感じのする誰かが――
 けれどあたりには誰の姿もない。小さい綾女が、水面にむかって叫び声を上げている。

 傷ついた両の腕が震え始める。あの時隼人を助けたのは、今の俺自身なのか――

 草の上に膝をついて叫んでいる綾女を見ながら、もしかするとこのまま消えてしまった方が彼女のためにはいいのかもしれない、と思った。中絶することなく、運命の相手と巡り会って幸せな結婚生活を送るのかもしれない。母には申し訳が立たないが、兄の存在がある。ためらいなく東京に進学できたのは、兄が実家を継ぐと言っていたからだ。このまま隼人が消えれば、綾女が兄を消す必要もなくなる。土地を継いだ彼が実家に戻って母の支えになってくれるなら、万事が丸く収まるのではないか――

 そこまで考えたとき、足元に小さい綾女がしがみついていることに気づいた。

「お兄ちゃん、お願い、隼人くんを助けてぇ」

 雨と涙に濡れてぐしゃぐしゃになった顔でそう言った。
 隼人は我に返る。目の前で溺れている少年が今の自分と同じ道をたどるとは限らない。東京に進学して、まっとうな道を生きて、この少女を幸せにするのかもしれない――

 そう考えた途端、激しく胸が熱くなって隼人は河の中に飛び込んだ。今の時代を必死に生きている少年の未来を、隼人は見てみたかった。父が死んで東京に発ったあの時期、未来は希望に満ち溢れていた。できないことなど何もないと思っていた。綾女の心を救う可能性がひとかけらでも残っているなら、そこに賭けたい――

 濁流の中でもがきながら、隼人の名を叫ぶ。水量が増したせいで大人の背でも足が届かない。水に濡れた服が全身にまとわりつき、濁流は容赦なく隼人の体を押し流していく。口の中に入ってくる泥水を吐き出しながら、何度も名前を呼ぶ。

 隼人、隼人、隼人。あきらめるにはまだ早すぎる――

 水面に顔を上げたその時、小さい手のひらが水を掻くのが見えた。必死になって流れに逆らい、沈みそうになったその手をつかみ上げる。渾身の力をこめて、一気に腕を引きあげる。

 ようやく小さい隼人の顔が水面に上がった。華奢な身体が呼吸をしようとして反射的に水を吐き出す。彼の胴体に腕を回して、これ以上沈まないようにしっかりと担ぎ上げる。すると彼は隼人の首根っこにしがみついてきた。

「隼人、あきらめるな!」

 虚ろになった彼の眼を見ながら、隼人は叫んだ。

「あきらめたら、そこでしまいなんや!」

 それは生前、父に何度も言われた言葉だった。
 おまえは見切りがよくて、あきらめが早すぎる。もうちょっと踏んばらんかい――自分でもわかりきっていることをどうして何度も叱りりつけてくるのかと、幼い隼人は思っていた。死の間際になっても威圧感の消えない父が苦手だった。