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di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア

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「おや? 腰を抜かしていた小娘が、いきなり何を言い出すかと思えば……」
「つまりあなたは、イーレオ様と直接、相見えずに、か弱き私たちを傷めつけることで、卑屈な自尊心を満足させようとしていらっしゃるわけですね?」
 メイシアは微笑んだ。聖女のような顔が、挑発的に妖しく歪んでいく。
《蝿(ムスカ)》の顔色が変わった。
「あなたは過去に、イーレオ様に負けたのでしょう?」
 婉然とした笑みは、娼館の女主人シャオリエから学んだものだった。
「……黙れ、小娘ぇ! 貴様にっ、何が分かるっ!!」
 地底から響いてくるような低い声に怒りを煮えたぎらせ、《蝿(ムスカ)》が吠える。
「ルイフォン!」
 メイシアは叫ぶと同時に踵を返し、思い切り地を蹴り出した。華奢な彼女なりの、精一杯の脚力――否、全身全霊の力をもって走りだす。
 そのとき、《蝿(ムスカ)》は我を忘れた。むき出しの殺意をメイシアに向け、翻る黒髪もろとも、彼女を袈裟懸けにせんと、白刃を煌めかせる。
《蝿(ムスカ)》の目には、メイシアしか映っていなかった。
 ルイフォンは、はっとした。目の前に《蝿(ムスカ)》の背中があった。頭と体の、どちらが先に、メイシアの策に気づいたのかは、ルイフォン自身にも分からない。けれど、彼女の意図を確かに受け止めた――《蝿(ムスカ)》の隙を突き、手傷を負わせて――逃げて……と。
 袖口に入れた右手はフェイント。毒の釘は一本しか作っていない。
 だからそれは、彼の奥の手、必殺の武器の存在を悟らせないための目眩まし。
 ルイフォンは素早くポケットに右手を走らせると、指先を引っ掛けてそれを掌に収めた。そのまま《蝿(ムスカ)》へと猛進する。
 気配に気づいた《蝿(ムスカ)》が、即座に刀を旋回させた。
《蝿(ムスカ)》がメイシアに気を取られたのは、ほんの一瞬のこと。わずかに遅れを取りはしたが、軽くあしらえるという自負が彼にはあった。
 その直後、《蝿(ムスカ)》の眼前でルイフォンの掌の刃が伸びる。
「何……!?」
 とっさに防御に出た《蝿(ムスカ)》の右腕を、湾曲した刃が引っ掛け、斬り裂いた。
 鮮血が散った。《蝿(ムスカ)》の細身の刀が取り落とされる。
「しくじったか……!」
 ルイフォンは舌を鳴らした。それは致命傷とは言わないまでも、深手を負うはずの一撃だった。
 間髪おかずに、ルイフォンは銀色の刃を回転させ、今度は下方から腹の肉をえぐらんとする。
 手応えはあった。
 だが軽い。明らかに浅く、《蝿(ムスカ)》に対してはかすり傷にも等しい。
 ルイフォンは足元に転がる《蝿(ムスカ)》の刀を遠くへと蹴り飛ばした。刀は、くるくると円を描いて地面を滑り、薄汚れた壁にぶつかって止まる。
 今なら逃げられるか……!?
 しかし、ルイフォンの直感が告げた。不用意に背を向けることは危険であると――。
「……カランビットナイフとは、驚きましたよ」
《蝿(ムスカ)》の冷たい視線が、ルイフォンの手元に注がれた。そこには、鎌状の小型ナイフが握られていた。
 柄の先が輪になっており、そこに指先を掛けて持つ特殊なナイフで、握り方によって瞬時に間合いが伸びる。順手にも逆手にも、変幻自在に持ち替えることができ、鉤爪のような刃は通常のナイフよりも殺傷能力が高い。その分、技術も必要だが、腕力的に長い刀を扱いきれないルイフォンの愛刀だった。
「あなた方を少々侮りすぎていたようですね」
《蝿(ムスカ)》の体が一瞬、緩やかにふわりと浮いた。軽く跳躍しただけであるが、その次の刹那、電光石火の早業でルイフォンの鳩尾を打ち抜いた。
「ぐはぁ……」
 ルイフォンは、自分の内臓が飛び出たかと思った。呼吸が止まる。
 地獄の苦しみに足元がおぼつかず、膝から崩れ落ちる。意識はあるが、強い吐き気に思考が奪われる。体を、動かせない。
《蝿(ムスカ)》が嗤う
 彼は音もなく歩き、ルイフォンに蹴り飛ばされた刀を拾ってきた。そして、蔑むようにルイフォンを見下ろした。
 ルイフォンは唇を噛んだ。
 多少の武術を学んだところで、その道で生きている人間の足元にも及ばないことは分かりきっていた。彼は凶賊(ダリジィン)の一員とはいえ後方部隊であり、巻き込まれた際に降りかかる火の粉を払う程度の力しか持ってない。
 それでも無抵抗にやられるつもりなどなかった。できるだけ長く《蝿(ムスカ)》を引き止めれば、その分メイシアは遠くまで逃げられるのだ。
 ルイフォンは、好戦的な目で《蝿(ムスカ)》を見上げた。
 しかし、《蝿(ムスカ)》が遠くに向かって「小娘!」と、声を放った。
「そのへんに隠れているのは分かっていますよ? この小僧の命が惜しければ、出てきてもらいましょう」
 ルイフォンは顔色を変えた。メイシアの性格を考えれば、すぐそこの角あたりで様子を窺っていて当然だった。
 吐き気を抑え、ルイフォンは叫ぶ。
「来るな、メイシ……!」
 だが、それも《蝿(ムスカ)》の強烈な蹴りによって遮られた。ルイフォンは地面に叩きつけられ、勢いのままに砂地を滑る。ちょうど先程《蝿(ムスカ)》によって切り飛ばされた上着のボタンのように、無様に地を転がった。
《蝿(ムスカ)》はメイシアの気配を探った。必ず近くにいるはずだった。あの小娘は、お上品なタイプの貴族(シャトーア)の娘に見えた。身分の低い者を虫けらのように扱う『捕食者』ではない。愚かなほどにどこまでも善人で、彼のような者にとって非常に好都合な『被捕食者』であると。
 メイシアは――姿を見せなかった。
 寂れた廃墟の道には、残飯を荒らす鴉すらいない。
 ただ乾いた砂塵だけが漂っていた。
《蝿(ムスカ)》は哄笑した。
「可哀想に、あなたは単なる捨て駒だったんですね。貴族(シャトーア)の小娘にしたら当然、ということでしょうか?」
《蝿(ムスカ)》としても予想外であったが、これはこれで愉快であった。
「残念でしたね。あなたは、あの小娘相手に随分、鼻の下を伸ばしていたようですが……。女は怖い、ということですか」
「あいつは賢い奴だ。お前の挑発に乗るような、愚かな真似をするわけないだろう」
 ルイフォンは《蝿(ムスカ)》に向かって唾を吐く。……だが、《蝿(ムスカ)》にやられた腹とは別に、胸の奥がちくり痛んだ。
「ともかく、仕方がありませんね。あなたはさっさと片付けて、小娘を追うことにしましょう」
《蝿(ムスカ)》は、銀色の刀身を頭上、高くに掲げた。激しい痛みの中でそれを見上げたルイフォンの目に、小さな花をあしらった鍔飾りが映る。この男の持ち物にしては妙に綺麗だ、そんな的外れな感想を、彼は抱いた――。