影さえ消えたら 2.復元
玄関先から女児の声が聞こえる。小さい隼人は口のまわりにスイカの汁をつけたまま部屋を飛び出して行った。手をひかれて入ってきたのは、帽子をかぶった小さい綾女だった。
「お兄ちゃん、もう大丈夫なん?」
帽子をとってそう聞いてくる。薄い眉を下げて心配そうに目を細めるしぐさは、今も昔も変わらない。トロピカル柄のワンピースは彼女の亡くなった母親が手作りしたもので、生地がすりきれるまで毎日のように着ていたことを思い出す。
「だいちゃんがはよ来いって怒ってるけど、どうすんの?」
「すっかり忘れてた。すぐ行くわ」
そう言うなり、彼は自室にとびこんで黒い布きれと手製のお面を持ってきた。小さい綾女が何やらこそこそと耳打ちをしているが、不意に飛び出した呼び名に隼人の鼓動が早くなる。
「だいちゃんって……同じ小学校の、桐生大輔くん?」
ざわつく胸を押さえながらそう言うと、彼はまた疑り深く隼人の目を見つめてきた。
「それもお父ちゃんに聞いたんか」
「ああ……うん、そう。君のお父さんが言ってたから」
とっさにそう取りつくろうと、また綾女は小さい隼人に耳打ちをした。今度はしきりにうなずいている。その微笑ましいやり取りを眺めていると、彼は顔をよせて言った。
「兄ちゃん、オレらの手伝いしてくれたら、仲間に入れたるけど、どうする?」
突然の提案に瞳を見開いていると、彼は額がつきそうなくらい顔を近づけてきた。
「世界を救う作戦を練るんや。兄ちゃん、頭よさそうな顔してるから、仲間に入れてもええ」
幼い頃の自分に言われて思わず吹き出してしまったが、どうやら本気のようだ。
何よりも今は大輔の存在が気にかかる。いったいどこからが夢なのか判別がつかないが、彼の存在をこの目で確認すれば、ばかばかしい白昼夢として納得できそうな気がした。
「わかった。協力させてもらうよ」
「よっしゃ。ほんなら今から秘密基地に連れてったる。お父ちゃんたちには内緒やで」
彼は口の前に人差し指を立てると、わざとらしく「しいーっ」と言った。差し出された短い小指に隼人は自分の小指をからめた。小さい綾女とも小指をからめて、指切りの約束をする。彼女の可愛い眉毛にも力が入る。
皿を持ってキッチンに行こうとすると、彼はポロシャツをぐいと引っぱって無声音を上げた。
「内緒やゆうてるやんか!」
「お礼も言わずに抜け出したら余計に怪しまれるよ。君のお父さんに挨拶をしてくるから、先に迷子の電柱に行ってて」
腰をかがめてそう言うと、小さい隼人と綾女は目を丸くして顔を見合わせた。
「そんなことまで知ってるんか」
「迷子の電柱」とは、長い間「この犬探しています」の張り紙が貼られた電柱のことで、学校の行き帰りに見かけるたびに隼人が気にかけていたものだ。
張り紙が風化してからも「迷子の電柱」と呼ばれて、いつからか待ち合わせの暗号のように使われるようになった。
「もしかして、この辺に住んでたことあるん?」
鋭い指摘に隼人は視線をそらした。これ以上口を滑らせてはまずいと思い、彼らの背中を押して「大輔くんが待ってるんだろ」とせかした。
素性を怪しんで目を細めてくる彼らを玄関から追い出したあと、台所に入った。母の姿はなかった。派手な唐草模様のクッションフロアを見下ろしながら、皿を置く。この頃と比べると、母はずいぶん食器類を処分したのだなと気づく。物にあふれていると思っていた実家も、ある程度は母が片づけたあとだったのかもしれない。
そう考えながら、隼人は南向きの和室に続くふすまをそっと開けた。
パジャマ姿の父は縁側に座っていた。農作業で鍛えられた体はまだ生気を失っていない。けれど雲間から白金色の陽光がふりそそぐと、その姿は光の中に消え去ってしまう。
「……お世話になりました」
そう言って頭を下げると、父はふりむいて言った。
「君は今、いくつなんや?」
意表をつかれて、隼人は思わず自分を指さした。子供の頃は厳しい表情ばかり見せていた父が、にこりと笑ってうなずく。
「三十二になりましたけど……」
「子供はおるんか?」
何を考えてそんな質問をするのか、憶測すらできない。生唾を飲みこみながら、当たりさわりのないことは正直に答えようと腹をくくった。
「いえ、結婚もまだなんで」
「そうか。こんなええ男をほっとくとは、おまえの時代の女は見る目がないんやなあ」
朗らかに笑った父の顔を見ながら、隼人は頭の中で言われた言葉を反芻した。
――おまえの、時代?
父が何を言おうとしているのか、考え始めると嫌な汗がこめかみをつたっていった。返す言葉を失っていると、彼は胡坐をかいたままのんびりと笑った。
「君は、俺の息子の隼人やろう?」
子供時代に見せたことのない穏やかな笑顔で、父は隼人を見つめる。心臓が不規則な脈動を始める。感じたことのない目眩が、脳の奥から揺さぶりをかけてくる。
握りしめたこぶしの中に汗がたまるのを感じながら、隼人は喉を震わせる。
「あの……俺……」
用心深い父が家に上げてくれた時点で、正体には気づいていたのかもしれない。けれどそのことを明るみにすべきなのか、隼人の中にはまだ迷いがあった。この時代に存在するはずのない自分のことを暴露すれば、時代の流れがおかしくなってしまうのではないかという危惧が、思考の隅をかすめていく。
すると父は明るく笑って、手元にあったうちわで顔を仰ぎ始めた。
「死に際におる人間には不思議なもんが見えるて言うやろ。でも君は結子らにも見えとるみたいやし、ご先祖様の類ではないと思たんや。どないしてこの時代に迷い込んだんかは知らんけど、俺の直観は外れてへんと思うで」
そう言ってにっかりと歯を見せる。今の自分が父と同じ年齢だからか、父子の間にあった越えられない壁は感じられなかった。むしろ、あの堅物の父が同世代の人間にはこんな快活な振る舞いを見せるのだと、驚きを隠せない。
縁側に手をついて立ち上がろうとした父がよろめいた。思わずかけよって肩を支える。
近所でいたずらをしては、頬を叩かれた。父の背中が怖かった。しかしこうやって抱えて初めて、巨人だと思っていた父もごく普通の成人男性だとわかる。しかもこの体は病に侵されている――
「俺はもう長ない。憐れんでくれはった仏さんが、人生の際におまえに会わしてくれたんやったら、俺はそれを信じたい。俺の息子は立派な大人になるんやて、安心して死ねる」
立派な――その言葉が隼人の胸に突き刺さる。俺は親父が望んだ立派な人間にも、自分が理想とした大人にもなれやしなかった――
苦虫をかみつぶしたような心地でいると、父は隼人を見つめて言った。
「結子が戻ってくる前に、はよう帰りや。うっかり者やけど、けっこう勘は鋭い。おまえの時代に戻った時に、お母ちゃんに追及されたら困るやろ?」
何気なく返ってきたその言葉に、また隼人は息苦しくなる。
「じつはこの前、亡くなったところで……今、遺品整理の最中なんだ」
抱えている父の身体から力が抜けていく。
作品名:影さえ消えたら 2.復元 作家名:わたなべめぐみ