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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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影さえ消えたら 2.復元

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 目を覚ますと、実家の天井が視界にうつった。どうやら布団に横たわっているようだ。頭上にある真新しい蛍光灯を見ながら、綾女が掃除したのかなと考える。

 手のひらを目の前にかざしてみる。感覚は鈍いが何も変わりはない。どうも和室で寝て、おかしな夢を見ていたらしい。そう思って体を起こすと、周囲には何も物が置かれていなかった。あれほど積み上がっていたガラクタはひとつ残らず姿を消し、だだっ広い六畳の和室に隼人が寝る布団だけがひかれている。

 陽の光のせいか、黄ばんでいたふすまが白く見える。ささくれ立っていた畳もまだ青さを残している。物がなくなると全てが見違えるようだ。いつの間に綾女が来て片づけたのだろう、と考えていると、ふすまのむこうから例の少年がひょっこり顔をのぞかせた。

「あっ起きてる。お母ちゃーん、目ぇ覚ましたみたいー」

 隼人の顔を見るなり、そう叫んでどこかへ走って行った。まだ夢の続きか、と痛む頭を抱えていると、今度は隼人と同じ年頃の女性が姿を見せた。

「土手で親戚の人が倒れたて息子が言うもんやから、びっくりしましたよ」

 和室に入ってきたのは、隼人の母、結子だった。心臓は収縮したまま動きを止める。
 彼女は豊かな黒髪を首の付け根でまとめ、花柄のエプロンをしている。記憶にある若い頃の母は、いつもこのエプロンを身に着けていた。
 指にはめられた小さなルビーが入った指輪、忘れようのない手の甲の傷跡――

「どこか痛いところはありませんか? 頭打ってへんかったらええんやけど」

 そう言って濡れた手拭いをさしだしてくる。わずかに触れた母の皮膚の感触が、これは夢ではないと告げている。

 震える手で手拭いを受け取りながら、隼人はふすまの奥に続く部屋をのぞき見た。
 放り投げられた黒いランドセルと、壁に貼られた「あいうえお表」、壁にかけられた黄色い帽子――どうやら自分が小学校一年生の時代に迷い込んでしまったらしい。

 冷たい手拭いで顔を覆いながら、考える。だとすると、まだ彼が家にいるはずだ――

 そう思って顔を上げた瞬間、男性の姿が視界に飛びこんできた。

「具合はどうですか」

 太い声でそう言ったのは、隼人が十歳のときにこの世を去った父、丹羽広大だった。

 自分と同じくらいの中肉中背の男が見下ろしてくる。顎が少し骨ばっていて髭が薄い。年を重ねるごとに「あんたはほんまにお父さんによう似てる」と母が言っていたのがよくわかる。
 まるで鏡で自分を見ているような――けれど引きしまった頬や力強い眼差しから、病床にあってもまだ失われない命の輝きを感じる。

 陽光を浴びるその姿に思わず、親父、と言いかけて、隼人は口をつぐんだ。

「……お世話になってしまって、申し訳ないです」

 かろうじてそう言うと、若き父はカラカラと笑い声を上げた。

「いやいや、隼人が血相変えて戻ってきたから、何事かと思いましたよ。日射病でも起こしたんでしょう。うちでゆっくりしてって下さい」

 真昼間なのにパジャマのズボンをはいた父は、そう言うと踵を返した。歩き方に少しぎこちないところがある。脳腫瘍を抱える父は、この頃から度重なるめまいや吐き気を起こし、倦怠感に加えて平衡感覚がおかしくなっていたはずだ。
 頼りない足取りを見ていると、思わず支えたくなってしまう。

 突然の来訪者なのに、どこの何者なのか聞いてこなかった。素直な母は父に言いくるめられればなんだって信じてしまう。小さな隼人もまた同じだ。
 瓜二つの自分を見て、何か感じるものがあるのだろうか――

 そう考えていると、またしても小さな隼人が顔をのぞかせた。

「おっちゃん、親戚の人てほんまやったんやな。お父ちゃんがそう言うてた」
「こら隼人。まだお若いのにおっちゃんは失礼でしょ」

 そう言って母が小さな手をぴしゃりと叩く。彼は「いてっ」と言いながら手を引っこめて、舌の先を突き出す。そこへ母は口をすぼめてきゅっと睨む。
 そのやりとりに、何かにぎりぎりと縛られていた体がふっと緩んだ気がした。

 記憶の底にこびりついている母の手の甲の傷跡――あれは生涯消えることなく、母の人生と共に歩んできた人生の傷跡だ。あれはたしか――

 怪我をしたきっかけを思い出そうとしたが、ふっつりと記憶の糸が切れた。
 知らないのではなく、確かにその現場が目に焼きついているのに、そこに誰がいて何をしていたのか思い出せない。
 こめかみのあたりに鈍い痛みを感じて、隼人は頭を抱えた。顔に皺のない母が心配そうにのぞきこんでくる。

「やっぱりお医者を呼んだ方がええんやろうか」

 父が世話になっていた主治医の名前をつぶやきながら部屋から出ようとしたので、隼人はあわてて手を引いた。

「お気遣いなく。そろそろおいとまさせていただきますから」
「そうですか? 大事な体のことやし、遠慮せんといてくださいよ」

 母はゆっくり手を引くと、立ち上がろうとした隼人の肩を押して「まだいけません」と言った。それは母が隼人を諌めるときによく使う言葉だった。そう言われて素直に従う子供ではなかったが、今ならこの言葉にどれほどの愛情が注がれていたのかわかる気がする。

「隼人、スイカ運んでくれる?」

 母がそう言いながら立ち上がると、彼は「やったー」と飛び跳ねながら部屋から出て行った。ふすまのむこうには彼の部屋があり、右に曲がれば居間と小さな台所が続いている。
 何度となく行き来したこの道筋を懐かしく思い出しながら、ふとこの部屋は誰が使っているのだろうと考えた。

 ぐるりと見渡した限りでは私物は見当たらない。父は廊下のむこうにある日当たりのいい六畳間を使っている。母はそのすぐ隣の部屋で寝起きしているはずだ。
 ぽっかりと空いた客間などあっただろうか――と首をひねっていると、隼人が真っ赤なスイカを運んできた。

「おっちゃん……ええと、兄ちゃん、東京の人なん?」

 唐突にそう言われて目を丸くしていると、彼はスイカの大皿を畳に置いて言った。

「兄ちゃんのしゃべり方、テレビの人みたいやもん。タイガーイエローの人みたいや」
「タイガーイエロー?」

 何の話かと思って聞き返すと、彼は何やらポーズを取って虎の鳴き真似をした。

「知らんの? スケボーめっちゃうまいんやで。俺もスケボー練習したいのに、お父ちゃんが買うてくれへんねん」

 ああそうだ、熱血漢の彼に憧れてスケートボードが欲しかった。主役のイーグルレッドを選ばなかったのは、あいつが譲らなかったからだ――と、くだらない記憶は芋づる式に思い出される。

「兄ちゃんはスケボーできる?」

 スイカにかぶりつきながら隼人が聞いてくる。真っ赤な汁が顎の下に垂れて、畳の上に落ちる。あーあ、またお母ちゃんに怒られるよ、と思いながら、隼人は首をふった。

「俺も買ってもらえなくて、今でも乗れないんだ」
「大人なんやから、自分で買うたらええのに」

 彼の切り返しの早さに、隼人は苦笑した。はすむかいに住む斉藤という親父など「子供のくせに生意気や」と酒に酔ってはよくぼやいていた。

「はーやとくーん」