シロカネのホロケウ
エタラカは、執拗に狙われ続けるレラをそれは必死になって守った。ワシがこの森の語りべとなって随分たつが、こと強さにおいて今に至るまで、エタラカ以上の獣には会うたことがない。
それから暫らくの間平穏な日々が続いたこともあってな、さしもの火を吹く人間も、エタラカに守られたレラのことはきっと諦めたに違いない……ワシでさえそう思っておった。だがな、だが甘かった……。
ワシら獣以上に、人間とは執念深い生き物だったんじゃ。
ある日奴はレラの隙を作る為に狙いを変えた……ウォセ、そなたにな。それもエタラカが狩りに出た僅かな時を狙ってじゃ。
母親とは不思議なもんじゃの……我が子に危険が迫っていることが何故かわかるんじゃな。
その日、森に溶け込んだ奴に誰も気付いておらんかった。いつものようにそなたと連れ立って小川に水を飲みに行ったレラだけが、どこか歪な空気を感じ取っているようじゃった。
キョロキョロと辺りを見回し、ふと目をやった岩場の隙間に、奴が……火を吹く人間がこちらを狙っている姿を発見したんじゃ。だがどうもおかしい。
いつもなら真っ直ぐに自分を狙ってくるはずの視線と殺気が、今日に限って僅かにズレている。
「はっ!……ウォセ!!」
〈ターーーーン!!〉
その音を聞くやいなや大急ぎで駆けつけたエタラカが眼にしたのは、全身の皮を剥ぎ取られ、見るも無残な姿となったレラの亡骸と、何もわからずその横で眠っているそなたの姿じゃった。
「レラ……。何故だかわんねえんだけどよ……、お前と暮らし始めてから、腹の辺がずーっとこそばいくてよ。ホントだぜ……何だかずーっと、こそばいくてよ……こそばいくて……レラ」
それからエタラカは、肉塊となったレラが土に還るまで飲まず食わずで毎日見守り続けた。自分を戒めるように、その痛みを刻み付けるように、ただひたすらに……見つめ続けたんじゃ。
そして、その間にも森では多くの獣たちが奴に殺されていった。
情けないことじゃ……この森で生きる全ての命の守護神たる語りべの役割に難渋を極めたワシは、憔悴するそなたの父にそれでも頼ることしかできなんだ。
小鳥達がついばみ、雨に打たれ、風に流され、虫たちの巣になり……すっかりレラの亡骸が土へと還った頃、意を決したワシはエタラカに話しかけてみたんじゃ。
「エタラカ、奴を……あの火を吹く人間を屠ってはくれまいか。これ以上奴を野放しにはしておけん……、お主しか……おらんのじゃ」
「ジジイ……。アンタに言われなくてもよ、俺様は奴を絶対に許さねぇ……。安心しな、必ず奴の息の根を止めてやる」
「すまん……力のない語りべだと恨んでくれて構わん。このワシにお主程の強さがあれば……」
「だから、てめえに頼まれたからじゃねぇつってんだろ! それに、今すぐってわけにはいかねぇんだ。もう少しだけ待っててくれねえか」
「もちろん無理な頼みをしたのはワシの方じゃ、ここから先はお主に全て任せる。 そうか……その子がウォセか」
エタラカの足元を見れば、何もわからず無邪気に遊んでいるそなたの姿があった。
「あぁ。コイツの背中見てくれよ、レラにソックリだ……。コイツを母親と同じ目には合わせたくねえ」
「うむ……、その通りじゃな」
「もしもだぜ? 俺様がいなくなった時によ、ウォセがちゃーんと自分の力でやってけるように、早いとこ鍛えあげなきゃなんねぇ」
「すまん……、そうじゃな」
「だからよ……決めたんだ。たった今からコイツとは親子でも何でもねぇ。コイツは拾ってきた、ただの犬っころだ。」
「犬っころとな?」
「あぁそうだ。コイツの母親を喰い殺したのは俺様だってことにするのさ。殺す気で向かってこなきゃぁ意味ねえからな」
「そ、それではお主、我が子に仇として憎まれながら暮らすことになるんじゃぞ! それが、それがどれほど辛いことか」
「へっ、いいんだよ。そんなこたぁウォセが強くなってくれりゃ……どうだってよ。それに、レラを守れなかった俺様がコイツから母親を奪っちまったってのは、本当のことじゃねえか」
そしてエタラカはそなたを連れ、隠れるように山奥の……今の巣穴に移り住んだというわけじゃ。
解したかウォセ、そなた達の大切な親子としての時を奪ったのは……このワシなんじゃ。
*
「おっどろいたーーー! ウォセとエタラカさんが親子だったなんて」
「シアプカ様……。じゃあエタラカは……と、父さんは今頃……」
「うむ……、この森の獣達を守る為……そして何より、そなたの母の仇を討つ為に奴の所へ向かっておるじゃろう」
「あ! ウォセ!」
「ウォセ!! 追ってはならん! 今のそなたが行っても足でまといになるだけじゃ!!」
(そんな事わかってるさ、オイラ追いかけたりなんかしないよ! でも……でももしかして月見の爪からなら、父さんの姿が見えるかもしれない!!)
一方、時を同じくしてエタラカは、切り立った断崖を物ともせず一直線に火を吹く人間……即ち狩人の元へと向かっていた。
ターンッ、ヒュン……ターンッ、ヒュン……迫り来る岩肌を蹴り飛ばしながら、その度に勢いを増し灰色の何かになっていく。それはもはや走るという生物的動作などではなく、一筋の野生の風であった……。
(ウォセ……お前は今頃お節介なジジイから全てのことを聞かされている頃だろう。あのお喋りが口止めなんて聞くはずがねぇからなぁ。
レラを守ってやれなかったクソみてぇな親父を、お前は許してくれるか?
あぁ~いや……やっぱいいわ、柄じゃねぇな。だが、これだけは安心してくれ。
俺様は……お前の牙じゃぁ絶対に死なねぇー!!)
平地に降り立ったエタラカは視界に狩人の姿を捉えた。だが、手利き熟手の鉄砲撃ちが圧倒的な勢いで迫り来る野獣の殺気に気付かぬ筈がない。
一瞥しただけで状況を理解した狩人は、傍えの愛銃を両の手で構え一呼吸の動作で照準をエタラカに合わせた。
「ゥガフゥーーーーーーーーー!」
その構えを眼にし、自分達親子からレラを奪った《奴》の姿を判然と脳裏に蘇らせたエタラカの殺気は、唸り声を共にして空気の軋む音が響く程に倍加した。
睨み据えたその眼からは血の涙が流れ、食いしばった牙は自らの顎に突き刺さった……。
それもそのはず……奴は着ていたのだ。あろうことか白銀の毛皮を……レラを殺し奪ったシロカネの皮を衣にし身に纏っていたのだ。
(レラ……すまねぇ、ちょっと遅くなっちまった。レラ……レラ!!)
……そして。
〈ターーーーーン!!〉
乾いた鉄砲の音が森に谺する。しかし……当たらない。銃弾はエタラカの頬を掠め後方の山際に命中した。破裂音と共に岩肌が露わになる。
さしもの狩人といえどエタラカの勢いに気圧され焦りが出たのか、射程に捉えきるより一瞬早くに引き金を引いたのだった。
弾込めの作業に狩人が気を取られると確信したエタラカは、至近に迫った積年の仇を目掛け猛然と飛びかかった。